旧街道散策 旧陸前浜街道 石名坂 南高野の旧道 付近の文化財

大橋城跡
 大橋城は、佐竹氏の山入一揆と称されている内乱の時代(1408〜1506)の明応年間(1492〜1500)の始め頃に、佐竹氏の有力な譜代の家臣であった小野崎氏の一族茅根氏(常陸太田市・茅根城主)が分出して築城したものである。小野崎家一族の日立市域最南端の山城であったが、宗家義昌戦死後の天正18年(1590)頃、佐竹義重の直臣となる。
後家門衆久慈東西組に茅根七郎太夫永楽30貫文大橋住とある。城の総構えは連郭式の並郭構造を有し天神山(写真右)全体を城地とする戦国期の山城で、空掘、土居、望楼跡等を今日に残している。

金刀此羅神社(ことひらじんじゃ)
 金毘羅さまで知られるこの社は旧坂本小学校の校庭の西側山頂に鎮座している。(写真左)
祭神は金山彦命にて、寛政年間(1789〜1800)に讃岐国丸亀象頭鎮座、金刀此羅大神を勧請し、農業と漁業の守護神として祀られ、久慈港の人達が御参りに登ったと伝えられる。
 金刀此羅神社の位置は、大橋城の一郭としての名残を止め、土塁と空掘りが巡らされている。

鹿島神社
 大橋の鹿島神社は武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祭神とし、太閤検地が実施された前年の文禄2年(1593)春に、鹿島大神のご分霊を鎮座して創建された。神紋は丸に三葵である。
 境内は185坪を有し、本殿は南向きで流れ造りとし、一辺一間の1坪である。
写真右:街道の脇で永い歴史を見つめてきた鹿島神社の鳥居

南高野城跡
 南高野城は「奥七郡の城郭跡と佐竹470年史」によると、天正代に構築され慶長代まで存続し、大和源氏(岩代国安積郡赤津村)の系である赤津雅楽之輔義候の居城であると言う。佐竹義重に仕え永禄5年(1562)の相馬氏の常陸侵入による孫沢原合戦の祭に坂上36騎第三番隊を指揮して戦功をあげている。
 南高野城跡は旧大甕街道に面し、約南北150メートル東西170メートルの方形にて、二重に四方を土塁で囲い中央部に池を有した比較的発達した時期の囲郭式構造の連郭式平城である。また、つい最近(平成5年5月)まで市立幼稚園前(南側)に土塁の残堡があったが6月頃きれいに整理されてしまった。


(出展:「ひらけゆく日立みなみ」地域マップ作成委員会、「日立みなみ風土記」日立みなみ歴史民俗研究会編より抜粋)

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