十八道坂(いしなざか)
石名坂は、交通の難所として有名であった。旧石名坂は「十八道坂」と書いて「いしなざか」と読んだ。石那坂とも書いた。水戸藩の「水府志料」によると、『「十八道坂」 長坂九拾六間、古来石那坂と書す。水戸義公命じて「十八道坂」の字用いらる。按ずるに、森山より磯原迄、片浜通18ヶ村への往還、此坂の外に道あることなし。故に名付けられし。此坂より北にある村々、これを坂上郷と称す』とある。また、水戸藩の見聞記録であり、いわば水戸領の地誌である「美ち草」によると、当時の名所32ヶ所の中に「十八道坂(いしなざか)」の記録がある。十八道坂と書き、どうして石名坂と読ませたかは、不明である。
古代、律令時代の石名坂地方は久慈郡高市郷に属して「高市」と呼称されていた。−中略−高市とは高所に位置した市(いち)である。眺望の開けた台地は神聖な場所とされ、人びとが多く集まり、物品交換(交易)や歌垣など、いろいろな目的に用いられていたという。高市は奈良時代には、久慈川を渡って石名坂(高市)に上りここをすぎて蜜筑の里、助川の里に至る交通路があった。また、静織(しどり)の里から久慈郡衙を通って太田の里へ、ここから高市に通じた交通路があり、高市(石名坂)で直結されていた。このように当時の高市は交通の要衝地でもあり神聖な場所、景勝の地でもあったのである。(出展:「ひらけゆく日立みなみ」地域マップ作成委員会、「日立みなみ風土記」日立みなみ歴史
民俗研究会編より抜粋) |