現在諏訪小学校が建っている台地一帯は、地名も「台」といって荒地を開墾した畑であった。畑を耕作していると、木器、土器の破片が散在しているのが見つかり、この辺りが先住民の生活域であったと推定されたものである。
諏訪小学校建設に先立って、勝田自衛隊の作業で整地が行なわれ、昭和39年秋に多くの縄文式土器が発堀された。この他に炭化物(クルミ)、発火石、磨石(すりいし)が出土し、日立市郷土博物館に保存されている。これらの山土品は、地下1mから1.5mの処に散存していた。
その後、昭和50年2月に校庭を南西側に拡張する際に、日立市は遺跡の党堀調査を行なった。約3ケ月にわたる発堀作業調査は大きな成果を収める事が出来た。(写真)
発見された遺構は、理料の実験で使うフラスコのような形をした土壙(土に堀り込まれた穴)が30基、埋葬に関係する埋甕(まいへい)が7基、縄文時代の住居址が2軒のほか、平安時代の住居址が1軒発見された。これらは、平安時代のものを除き約4,500年前(縄文時代中期)の人々が残したものと推定されている
このような価値ある土器や石器を出土した諏訪遺跡の台地は、諏訪の山々を背景として日あたりが良く、天災地変も少なく、水の便も近くにあり、東南西の三方に開け見晴らしが良く、さらに外敵を防ぐ高台であったために、古代の人達の恰好の生活地であったのであろう。
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