日立南部地区(久慈川流域)の古墳・横穴墓

   久慈川流域では4世紀の中頃から後半に、久慈川とその支流に挟まれた台地の先端部に、全長37.8メートルの前方後円墳(富士山4号・大宮町)がつくられました。また、金砂郷町小島には全長90メートルの星神社古墳(諏訪山古墳)があります。
 これに続いて、4世紀末から5世紀はじめころには、墳丘の長さが151メートルの前方後円墳、梵天山古墳(常陸太田市)が築かれたと思われます。
 5世紀前半に造られたと考えられる前方後円墳は、50メートルほどの瓢塚古墳(常陸太田市)や、60メートルの五所皇神社古墳(大宮町)で、前時代に比べると明らかに規模が小さくなっています。高山塚古墳(常陸太田市)も同じころで、直径約90メートルがつくられますが、前方後円の形をとらないことが注目されます。

 久慈川下流域では、5世紀の中頃に約90メートルの前方後円墳、権現山古墳(東海村)が築かれました。このように、大型前方後円墳の造られる地域が変わるのは、久慈川流域の首長たちが、5世紀に入り活発化したヤマト政権の軍事的な行動を受けて動揺し、流域を治める首長権が中流から下流へ移った現われではないかと考えられています。

 日本列島に残された15万基を超える古墳の90パーセント以上が6世紀以降に築かれた後期古墳である。日立市においても6世紀、とりわけ、その半ば以降に築造されたものが圧倒的に多い。それまで、首長など特定の地位を占める人にしか出来なかった古墳の築造が、より広い範囲の階層の人に認められるようになったという、社会構造の変化を反映していると考えられる。
 最も古いと考えられているのは、南高野町にあった西大塚古墳群の1号墳です。久慈町の舟戸山古墳も6世紀前半の古墳と考えられています。
 6世紀後半には、新しい墓制として、台地や丘陵の斜面に横穴を掘った横穴墓が現れてきます。一般的に群集して造営されています。

 5世紀代の久慈川流域には、竃、鉄の道具をつくる鍛冶の技術、石でつくった模造品による神まつりが伝わってきて、民衆の生活も大きく変化します。なかでも竃は、この時からお およそ1500年にわたり、台所で中心的な役割をはたしたのです。
 

甕の原古墳群   赤羽横穴墓群
西の妻古墳群   西大塚古墳群

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