小野家住宅

 梅林通りを狭んですぐ東側に大谷石の石塀で囲んだ曲り家がある。
 この曲り家が、県指定文化財の『小野家住宅』である。 門を入るとすぐ左手に案内板が目につき、来訪者にわかるように親切に書いてある。
  茨城県指定文化財
  建造物第四八号 小野家住宅
 江戸時代小野家は代々横目庄屋を務めた家柄である。諏訪神社の近接地に位置し、北側は谷間になって落込むという要害の地に建っている。桁行九間、梁間三間半の主屋に三間掛ける二間半の曲がりがつき、厩屋の上に中二階を建ける土間の架構は、梁を一段組にした簡素なもの、小屋組は掻首である。「うわゆるり」は重ね梁を室内に見せている。
 「ざせき」の二面には内縁が設けられるが当初の状態は雨戸の立たない内縁と早られる。 部屋の縁境いの柱間には三本溝の鴨居が入っていることからそれが証明される。
すなわちそれぞれの一間の柱間には二枚の榎戸と一枚の障子が入っていたのである。これは戸締り形式としては雨戸が普及する前段階の状態を示している。四室の天井はそれぞれ個性を持ち、柱の仕上げについては表側を「カンナ」で裏廻りを平刃「チョーナ」を使用する。
 県下で現在知られる曲屋形式ではもっとも古く、十八世紀前半の建築と推定される。 別棟形式と曲屋形式の関連性に於いても注目されている。
 この小野家一帯は、案内板にも明記されているが、平館跡でもある。介(助)川隼人正義通が住み、佐竹義重に仕え永楽二五貫文を賜わり、代々平館に住んでいたといわれている。館主は、文明一七年(一四八五年)の岩城常隆や永禄五年(一五六二年)相馬盛胤の侵入によって滅亡した。館跡のようすは裏側の崖や東側にうかがわれる程度になってしまったのである。庭中央の祠の近くには、かって、藤田幽谷の碑と諏訪平館跡の碑が建立されていたが、或時、工事人に砕かれて採石とし使用されてしまったということである。祠は、オトヒメ様を祀ったといわれているが詳しいことはわからない。当家につかえたヒメの供養のもの思われる。
 小野家には、幽谷亭があり、諏訪神社隣には錦谷亭があって錦谷亭には斉昭が来訪されたといわれている。

出典:「諏訪散歩」小泉常夫、大塚和弘共著(昭和56年10月1日)より抜粋

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