日立の徳川家史跡7 助川海防城 |
|
天保7年(1836)斉昭は異国船に対する防備を固めるため、佐竹時代に新城七郎が要害山に築いた 蓼沼館跡に館を構築させ、家老山野辺義観を海防惣司に任じて海防城としての役割を果させた。
これが助川海防城である。 この城は元治元年(1864)の元治甲子の乱の時戦火に遭って焼失し、 今では土塁しか残っていないが、かつては助川小学校から日立工業、太陽の家あたりまで 山並全体に広がる広大な敷地を持っていた。 現在城跡公園は県指定史跡になっており、「助川海防城跡保全会」が 保全・復元・管理にあたっている。 なお、会瀬グランドから道路を隔てた北側の双葉幼稚園の下の墓地には、当時の山野辺家臣 の殉難碑が建っている。 参考文献:「歴史の息づくまち助川」 |
|
助川海防城跡 山野辺家臣殉難碑 |
|
次は会瀬浜 へ |
|
日立の徳川家史跡へ戻る |