助川海防城は、9代水戸藩主徳川斉昭によって
天保7年(1836年)に築かれた海防目的の平山城で、
現在の日立市立助川小学校から西側の助川山にかけて
位置していました。(左は本丸跡付近の写真)。
平成10年6月、日本に2ヶ所しかない海防城の
ひとつであるこの史跡を保存し後世に伝えるため、
「助川海防城跡保全会」(TEL: 0294 (23) 0955)
が発足しました。
そして城跡をはじめとする日立市内の海防施設の
保存・整備・復元や、 勉強会・交流会などの
イベントを通じて、全日立市民や山野辺氏の故郷で
平成16年に日立市と友好都市となった
山形県山辺町をはじめとする関係者の皆さんへ
アピ-ルすると共に、全国にもPRしています。
斉昭の時代には、ロシア・イギリス・アメリカなどの船がしばしば
日本近海に現れ、幕府に対して開国を迫っていました。
このため斉昭は尊王攘夷を唱え、海防により力を入れるため、
水戸藩沿岸にさまざまな海防施設を設けると同時に、中世の
古城田手沼館(たてぬまのやかた)に家老である山野辺家
の屋敷を移すという名目で本格的な城を築きあげました。
これが助川海防城で、当時は助川館と呼ばれました。
(左は当時の城の絵に彩色したものです)。
こうして山野辺義観(よしみ)は海防惣司に任ぜられ、
助川海防城主として以後幕末にいたるまで山野辺家は
3代に亘って海防の充実を図りました。
しかし、元治元年(1864年)天狗諸生の乱に巻き
込まれ、海防城は同年9月ついに落城し、28年間の
活動の幕を閉じました。
左の写真は、本丸跡にある記念碑で、明治の宮内大臣
田中光顕伯(詳細は「幕末と明治の博物館」参照)が
ここを訪れて詠んだ歌
「そそり立ちし 城はあらねど 築きつる
人の功は とわに残りて」
が刻まれています。
なお、このペ-ジの背景は、山野辺義観が愛した
鳩を刻んだ「はと石」の拓本から取っています。
また、左のアイコンをクリックするとここの
四季の風景が見られます。
助川海防城の地図
助川城跡公園には、日立駅発
日立電鉄バス 城南台行き
に乗り、「鳩ヶ丘」で降り、
太陽の家の傍の坂を登ると
行くことができます。
なお、茨城の城・城跡については余湖さんのHPに詳しく紹介されています。