助川地区の名所旧跡
(山野邊やまのべ)家墓所
山野邊家は山形城主 (最上 義光もがみよしあき)の 四男で山野邊を領した (義忠よしただ)を始祖としている。 最上一族の内紛の後、1633年 (寛永10年) 山野邊 義忠が 水戸家に迎えられ、以後代々家老に任ぜられた。 1836年 (天保7年) 徳川 斉昭の命により山野邊(義観よしみ)が 助川館 (海防城) の初代館主として移住してきた。 墓所には 初代館主 義観、 二代館主 (義正よしまさ)、 三代館主 (義藝よしつね)や 義観の父 (義質よしもと)が葬られている。
助川宿本陣跡地看板
大聖寺跡スダジイ
「助川宿の 左の方 大聖寺 真言宗」 (川上檪齊『岩城便宜』享保15年 1730) の記載があったが現存しない。 日立電線(株)電線工場に隣接するこの墓地は、日立市緑の保全と緑化の推進に関する条例に基づき 1978年 5月に指定された保存緑地 第1号である。 739㎡ シイ 4本 カヤ 1本
(金山百観音かなやまひゃくかんのん)
金山百観音の散歩記
助川海防城跡からの眺め
助川海防城跡探訪
城跡公園の四季
助川一里塚跡
旧 (岩城相馬いわき そうま)街道 ( 後の 陸前浜街道、現 国道6号線 ) の 助川一里塚跡 の石碑が 茨城県立日立第二高等学校の構内に建てられている。 一里塚は 現在の正門 (南西側) と裏門 (北側) の中間あたりにあったと推定されている。
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