第三話  初崎海岸の大砲  「鎖国」といって外国とつきあいがなかった江戸時代の末ごろ、会瀬の沖合いにイギリスやアメリカの鯨とりの船が来ました。 漁師は野菜や魚を持っていき、外国のめずらしい品物と交換しました。この話を聞いた役人はびっくりして、漁師をろうやにいれてしまいました。

 このころは外国との貿易を禁止していましたから、江戸の将軍はこうかんを貿易と同じとみたのです。そして、外国の船が日本に近づいた時には大砲で攻撃してもよい命令をだしました。 水戸藩では海を見張るために助川小学校の裏にとりでを造りました。「助川海防のとりで」といわれています。

 近づいた外国の船を攻撃するために初崎海岸の見張しのよい小高い所に大砲をすえつけました。第二話にある相賀の館の一つ新城あとのなだらかな斜面を利用したのでしよう。海に向けて大砲を五門おいて外国船を撃つ準備をしました。この大砲で外国船を撃った記録はありません。

 

一八三六年(天保七年)藩主徳川斎昭は海防総司として山野辺義観を任し助川の地に海防の総拠点として館を設けた。初崎梅岸の相賀館跡地(新城)に異国船の来襲に備え砲台が築かれた。
 太平洋戦争末期にも、まったく同し場析に本上防衛のために塹壕と砲台が築かれたが大砲の設置にはいたらなかった。

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