竪破山
(たつわれさん)


 「ハイキング体験」
  国道349号の日立市の外れ、上深荻と十王ダムを結ぶ道を入り、トッププレーヤーCCと十王CCの間を標識に従い、北に入り、2km弱で再び標識で舗装道路を外れ、狭い道を2km程はいると駐車場に出る。この道は狭く、草の生えた道で、途中に数箇所狭い待避所があるが車のすれ違いには苦労しそうな道。駐車場には一の鳥居で左折して暫くすると出る。ここにはトイレ、案内板など整備され、この先の登山道も良く手入れされている。

  竪破山は標高658mで、茨城百景の一つ。花貫自然公園の一部。頂上には黒前(くろさき)神社が有る。
  二の鳥居から登りはじめる。杉などの大木の間だが、道が比較的歩きやすく、下枝が刈られ、見通しが良いので、周りを楽しみながら登れる。まず、七奇岩の番外、不動岩に出る。
続いて、烏帽子石から畳石を眺めて、小さな炭焼き窯の跡の横を抜けると左に弁天池、右に鳥居と随神門(写真上)が現れる。一先ず、ここは通り越して、太刀割石(写真下)に向かう。この石が代表的な大石で、綺麗に割れた石が、小さい方が立った姿で存在する。一見の価値がある。

  随神門をバイパスして直接山頂に向かう。釈迦堂の感じの良い境内に出る。ここに、反り返った小船の形をした舟石と、その後ろに甲石が有る。釈迦堂の横の急な階段を上ると黒前神社の神殿に出る。神殿の裏に三角点があり、その横に展望台が立っている。台上からは360度の眺望が楽しめれ、南は残念ながら筑波は霞んでみえなかったが、常陸太田市から千波湖、左に転じると、真弓、高鈴、神峰と続き、高萩のパルプ工場、更に、真下には土岳が見える。西は栃木の山々。

  急な斜面を少し降りると胎内石に出る。ここから戻る。帰りは随神門をくぐる。門の左右は左大臣、右大臣だが、その裏の格子を覗くと仁王様がいる、案内書によると廃仏毀釈の影響で裏に隠したとある。
もう一つの奇岩、神楽石は太刀割石の奥にあるが、今回は割愛した。



 【黒前神社の事】
  奈良時代に編纂された『常陸風土記』参考資料ー1の茨城郡の条に記されている。
「古老の曰へらく、昔、国巣山の佐伯、」で始まるその内容は次のようなものである。
  この地で朝廷の命令に背き、人々を苦しめるものを、多くの将兵を引き連れて討伐に来た黒坂の命は、原野に自生する野ばら(茨棘うばら)を集めさせ、賊の住居である穴を塞いで追いやり滅ぼした。故に、このうばらの名をとって縣の名にした。さらに「その後、黒坂の命はいわきに住んでいる蝦夷も征服して、その帰り道、多歌郡角枯之山(竪破山)にさしかかった時、病気になって死んだ。
  これより後、角枯を改めて黒前の山と呼ぶようになった。遺体は日高見の国(稲敷郡美浦村)に埋葬した」。また、命が角枯山に至った時、「黒前口から身なりの整った童子が駿馬を引いて現れ、『お疲れの様子だから山上の石室にてお休みになられては』と申し出て、黒坂の命を馬の背に乗せるやいなや急坂で危険な山肌を一気にかけ登り、山上の岩室へ案内した。家臣がそこへ至った時にはその童子と馬は消え去っていた」という。「この岩室で黒坂の命を失った家臣たちは悲しみのうちに山上に祠を設けて命の霊を奉り祀り、亡がらを日高見の国まで送って行く前途暗澹な思いが黒前山と呼ぶいわれになった」。という話も残っている。
 
  その後も、陸奥の国で民を悩ませていた妖怪変化を退治に使わされた征夷大将軍坂上田村麿がこの山の神徳を仰いで平定したようだ。大同元年(806)坂上田村麿は社殿を再興し、翌大同2年には磯出祭礼(神輿を稲村浜、今の伊師海岸に出社)が行なわれた。宝作長久、天下泰平、五穀成就、万民豊楽を祈擣したという。
  さらに永保3年(1083)八幡太郎義家も奥州征伐の折に戦勝祈願に立ち寄ったといわれ、帰路再び戦勝報告にこの山に登り、釈迦金堂と八幡神社を寄進したと伝えられている。遠い遠い古の時代からこの山は、黒坂の命の霊が留まっているという御霊信仰の山と言えよう。そしてまたこの石山は、その昔山岳信仰に生きる修験者の恰好の修業の場であったとも言われる。今も残る弁天池は一名雨乞いの池とも呼ばれているが、山伏たちが仁王門から上の霊山へ登る御手洗之池とも伝えられる。人為でなく巨大な岩石が奇妙に割れて露出している様は、正に神秘な力と受けとめられたのだろう。

【竪破山・名前の由来】
  元禄6年(1693)、西山公水戸光圀は、水戸城の艮位(こんい・北東の方位のこと)に当るこの山を鎮護国家の霊地とし、七奇石三瀑の名勝を定めたという。八幡太郎義家が太刀を執って大石を割ったという故事からその石を太刀割石と名づけた。後世この太刀割がなまって「たつわれ」と呼び、山名を「竪割」の字を当てるようになったという。その故事というのは、「義家は夢の中で白雲に乗って来た神人から金剛の利剣を授かる。夢から覚めると果たして枕元に見事な大太刀があるのに驚き、そばにそそり立つ、大石に向かって切り降ろすと真二つに割れ、片方は立ち、片方は地響きと共に大地にのめり込むように倒れた。それを見た義家と将兵は閧の声を上げ勇躍奥州へ向かった。」という話だ。太刀割石は、縦の直径7m、横6m、面の周り20mという巨大な石だ。

 また一説に、仁王門から石段を登った所にある甲石(かぶといし)と名付けられた高さ3.5m、周囲12mの石は、正面をくりぬいたほこらがあり、その中に薬師如来の眷族十二神将像(今は6体)が祀られている。薬師如来の偉大な知恵の光が岩を割り、衆生済度(しゅじょうさいど)に手をさしのべているという信仰から、別名竪破和光石といい、そこから山名が付いたともいう。

参考資料
1 「風土記(一)常陸風土記」   1994年10月17日発行
           著者 秋本 吉徳  発行 講談社
2 「竪破山 黒前神社ものがたり」平成3年2月25日発行 著者 志田諄一・岡部英男・岩波秀俊
           発行 竪破山黒前神社奉賛会
3 「ふるさとむかし十王 古老よりの贈りもの」 平成2年5月31日発行 発行者 十王教育委員会
4 「常陸五山の山岳信仰」   1988年9月15日発行  著者 志田 諄一 発行 筑波書林
5 「常北之山水」       1986年8月25日発行 著者 関 右馬充 発行 筑波書林
6  「竪破山のブナ林 生育・分布調査報告」  平成8年6月発行 十王教育委員会
      県内の主なブナ林 花園山、八溝山、男体山、吾国山、加波山、筑波山

八巻、江田 記

< ハイキング 目次 に戻る >     < 十王地区の名所 竪割山 へ >