西の妻古墳群 (日立市石名坂町1丁目) 

 

 平成16年2月にオープンしたばかりの「久慈川日立南交流センター」を9時30分に出発し、日立電鉄線大橋駅の踏切を渡って、急峻な石名坂を上がる。1年前には西金砂神社と、東金砂神社の神輿の行列も、この坂道を上がった。重い神輿を、もしも人の手で担ぎあげたらと、思わずにはいられないほどの急な坂だ。 石名坂を上ぼると、左へ曲がる県道亀作線がある。角には、昭和15年に皇紀2600年に合わせ建立した、西行法師の歌碑がある。石名坂の地名は、古代、名坂浦といわれ、近くまで海水が湾入していた。歌碑に刻まれた文字はやや見にくく風化している。  「世の人の ねざめせよとて 千鳥鳴く 名坂の里の 近き浜辺に」


西行法師の歌碑

 西行法師の歌碑や、隣の理髪店がある区画の西隣が「西の妻古墳群」である。 まず目につくのは、全長51mの前方後円墳の1号墳である。その奥に、2号墳の直径18mの円墳がある。1号墳の後円部は、直径29m、高さ6.7mあり、頂きに氏神を奉ってあるという。この土地の所有者は、代々氏神と古墳を大事にしてきたため、保存状態が良い。


西の妻古墳群、2号墳から1号墳を見る

西の妻古墳群の築造時期は6世紀後半で、前方後円墳の原形を留める古墳として日立市内唯一である。 平成5年、6年の発掘調査で、1号墳周溝には、高さ77cmの円筒埴輪や、等身大人物の埴輪の一部が発掘され、日立市郷土博物館に保存されている。 古墳は豪族や首長の墳墓であるが、ここには 大きな埴輪であったことから、当時、勢力のある人物のものであろうと考えられている。

【Q&A】

Q:埴輪はどこで焼いたのか?

A:日立市には、埴輪を焼いた窯跡がまだ見つかっていない。ここに近いところとしては、常陸太田市の太田山埴輪窯跡があるが、そこで焼いたものかどうか不明である。 埴輪の土を見ると、石が混じっている。 六世紀前半からの埴輪が沢山でているが、 窯跡もどこかにあるのではと思われる。

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