日立の徳川家史跡20 久慈浜 |
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久慈浜(左写真)はかつて久慈川口に広がって いた漁港で、茨城百景に選ばれている。久慈小学校の 校庭にはその記念碑が建っている。 光圀は西山荘に隠居した後もしばしば久慈浜で遊んだ。 浜の西南にある離山(はなれやま)は別名「逃山」 ともいわれ、永録5年(1562)宇佐美三九郎がここに 久慈城を築城していたが相馬盛胤に攻められたので 未完成のまま逃れたという故事がある。 光圀はここに別邸を建てようとしたが、その名を忌んで 取りやめたといわれる。 幕末になって斉昭は元の川口の崖上にある行戸公園の 辺りに久慈台場を設けて異国船に備えさせた。 このあたりには久慈八景が選ばれているが、久慈川口 が埋め立てられ日立港に変わった今では何枚かの古い 写真のほかに昔の景色を偲ぶよすがはない。 |
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参考文献:「ふるさとまっぷ久慈」 |
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茨城百景碑と離山遠景 久慈台場跡より日立港方面を見る |
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次は光圀日立訪問の謎」へ続く |
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