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光圀日立訪問の謎


 「日立の徳川家史跡」を見ると、水戸藩主の日立への訪問回数は光圀がきわだって多い。
20ヶ所の史跡のうち16ヶ所に足跡を記しており、また年表で数えて見ると光圀に関する 記述は18回あって、全部で46項目のうち約4割を占めている。  
鈴木彰氏の「水戸黄門の遊跡」に載せてある年表を見ると実に37回日立を訪れている。 しかも彼が西山荘(上の写真)に隠棲した元禄4年(1691)から死去する元禄13年(1700) までの10年間に31回も日立各地の史跡や知己を訪れ、大内家には20回泊っている。  
隠棲時の10年間、光圀は日立ばかりでなく水戸・県北・県南など領内各地を歩きその 回数は約120回、すなわち毎月1回になる。その内水戸と那珂湊方面がそれぞれほぼ 30回で多いがこれは水戸城や別荘のいひん閣があるためであろう。しかし日立にはその ような施設はなかった。  
果して日立はなぜそんなに光圀を惹きつけたのであろうか。
彼が隠棲した元禄年間は 徳川幕府が成立した慶長8年(1603)から約百年経っていて、絢爛たる町人文化が華開いた 元禄繚乱の時代であった。しかし江戸から40里の日立にはその文化は届かず、江戸の 賑わいに比べれば侘しく寂しい海辺の村々であった事であろう。  そんな日立になぜ光圀は何十回も訪れたのであろうか。
思うに、光圀は兄頼重を差置いて 藩主に抜擢され、その期待に応えるべく藩内では寺社改革をはじめとする文教振興を行う 傍らで大日本史の編纂という一大事業をはじめた。その一方幕府に対しては副将軍として 時には将軍に対しても苦言を呈さねばならなかった。すなわち常に名君としての顔を保た ねばならなかったのである。  それが齢60を過ぎてようやく念願通り兄の子綱条に藩主の座を返還すると、光圀は 江戸小石川の藩邸を退いて太田の西山に質素な山荘を作らせてそこに隠遁した。そこで 彼は煩わしい政事から解放されて悠々自適の余生を送る考えだったのだろう。  
しかし西山荘は太田郊外の薄暗い谷間に在り、見晴しが悪く散策に適している場所では なかった。そこで暮らしているうちに、光圀も時にはかつての江戸や水戸での多忙だが 華やかで刺激に満ちた生活を懐かしむ事もあったろう。  しかし斉昭の場合とは違い、自ら藩主の座を降りたのに再び政治の表舞台へ出たのでは、 藩主が実子でないだけに何かと意志の疎通に行違いが起り易く、ひいては藩の政治を乱す 因にもなりかねない。そこで光圀は気晴らしのため、西山荘から近く久慈川を下ればすぐ 行け、広々とした海が広がっていて魚もおいしい日立へ通ったのではなかろうか。  
また光圀が領内の多くの寺院や神社に参詣し、しばしば詩歌の宴を催し、社殿を造らせ たり仏像を寄進したりしたのは、藩政を乱さないで自らを満足させるためでなかったか。 そう考えると光圀の数多い日立訪問の謎が解けるのである。



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