一、おおせの昔ばなし
第一話 おおせとあいが
大昔、「やまとたける」という天皇が日本をまとまった一つの国にするために、あちこちにでかけました。 奈良時代になって「助川」とかわりましたが海に近いところの人々は「あいが」の地名をつかってました。 江戸時代になってから水戸のどのさまが「やまとたける」の話を聞いて「村の名を会瀬としなさい」いいました。 「おおせ」とは男と女がデイトするということです。土地の人ぱ、これはおめでたい名だと「会瀬」をつかうことになりました。「あいが」の名は、長い間に「遇鹿」から「相賀」と変わり、いまの相賀町で地名として使われていました。 常陸風土記「…此より20里、助川の駅家あり。昔、遇鹿となづく、古老のいへらく、倭武の天皇、此に至りましし時、皇后、参り遇ひたまいき、因りで名づく」
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