一、おおせの昔ばなし   第一話 おおせとあいが

 大昔、「やまとたける」という天皇が日本をまとまった一つの国にするために、あちこちにでかけました。
 関東地方から東北地方にかけて軍隊をひきいていた「やまとたける」は、おきさきを都から遠い会瀬によぴました。
 会瀬の浜に着いたおきさきと、「やまとたける」があいました。浜には鹿も遊んでいました。二人ぱうれしくて、地名もなかったこのあたりを「あいが」(しかにあう=遇鹿)と名をつけました。

11d.jpg (24160 バイト) 奈良時代になって「助川」とかわりましたが海に近いところの人々は「あいが」の地名をつかってました。

江戸時代になってから水戸のどのさまが「やまとたける」の話を聞いて「村の名を会瀬としなさい」いいました。

「おおせ」とは男と女がデイトするということです。土地の人ぱ、これはおめでたい名だと「会瀬」をつかうことになりました。「あいが」の名は、長い間に「遇鹿」から「相賀」と変わり、いまの相賀町で地名として使われていました。
会瀬の「会」は人が大勢集まるという意味です。

常陸風土記「…此より20里、助川の駅家あり。昔、遇鹿となづく、古老のいへらく、倭武の天皇、此に至りましし時、皇后、参り遇ひたまいき、因りで名づく」
水府志料「会瀬浦、村名初は相賀村と称す。古来は会瀬と申せしよし、元禄十一年、今の名に改めらる。」

 

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