第九話 戦争と会瀬

(その一)一トン爆弾

 昭和二十年六月十日、月曜日でしたが会瀬小学校には児童は登校しませんでした。この日、アメリカ軍の飛行機が日立を攻撃するという紙がまかれていたからです。九時ごろ日立の上空にアメリカの大型の飛行機がきました。四回にわたって百二十五機が工場を自標に爆弾を落としていきました。ートン爆弾どいって当時、もっとも大きな爆弾を五首発、落としたのです。工場はすべて破壊されました。29a.jpg (35451 バイト)

 ねらいがぱずれた爆弾は相賀町に大きな被害をあたえました。特に、今の国道二百四十五号線ぞいぱぴどいものでした。直径十メートル、深さ五メートルぐらいの穴が方々にあり、道路はなくなり、家ば吹き飛んだり破壊されたりしました。電柱は傾き、たれ下がった電線には吹き飛んだ布がぶら下がっていました。爆撃されていたころ多くの子どもたちは庭にあった防空壕(ぽうくうごう)という避難する穴に入っていました。両手で目と耳をふさぎ、うつぷせしてましたが、爆弾が落ちくる時のヒユーンという音と、ものすごい爆発の音と振動で生きた心地がしないほどでした。死んだり傷を負ったりした人が多く、全員死亡の家もありました。会瀬小の子どもは幸いなことに全員無事でした。その後雨が降ると、爆弾が落ちたあたりの水たまりは不気味な赤い色をしていました。

 

(その二) 艦砲射撃と焼夷弾

 爆弾攻撃を受けたから一か月がすぎた七月十七日の夜中画むし暑く雨が降る申、日立は海からの攻撃を受けました。日立沖にきた十七隻のアメリカの軍艦が大砲で鉱山や山手工場・電線工場を攻撃したのです。十一時すぎに飛行機がきて照明弾を落としました。それを目標に大砲が撃たれました。天気が悪かったためか、ねらいがそれ日立二高から工業高付近に砲弾がうちこまれ、大きな被害を受けました。この時に撃ち込まれた砲弾はご一百四十発を数えました。旭町や相賀町・会瀬の上を砲弾が通ったことになりますから、頭の上を通るヒユルヒユルという音はとても気持ち悪く間こえました。雨の中、泥だらけになって穴の中にうずくまっていたのです。攻撃を受けた時間が長く、いつ自分たちの所に砲弾がくるかと、不安で恐ろしい時間でした。

 二度に渡る攻撃で日立にいると命が危ないと、家族全員が工場のない安全な町や村に一時、避難した家が多く会瀬小学校の子供も大変少なくなってました。

 海からの攻撃がおわりほっとするまもなく十九日の夜中、百二十七機の飛行機が日立の上空に来ました。ザァー、ザァーという音で戸外にでてみると、はるか頭の上の空一面が火なのです。火のかたまりが落ちてくるのです。この日、一万発をこえる二種類の焼夷弾(しょういだん)という建物を燃やしてしまう爆弾が落とされました。六月十日の体験から、人々は海岸のがけに作られた横穴に避難しました。焼夷弾には油がつまっており空中で火がつき落ちてくるものがあり、いたるところで火災が発生し街全体がもえあがりました。海にも落ちたため、油がひろがり、それに火がつき初崎の海は一面、火の海となり火の波が打ち奇せました。夜が明けると駅から六号国道あたりまでは焼け野原となってしまいました。工場は数日もえていました。

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