第七話  だいぼう網で大漁  広い磯があり、入り江であった会瀬は漁業がさかんでした。江戸時代につくられた「かつお節」の生産地の番づけ表の中に会瀬や河原子の名がのっています。

 磯で「あわび」や「さざえ」などを養殖した記録もあります。阿部五作さんが昭和十一年に六キロメートル沖合に大がかりな網を置いて魚をとる漁業(定置網)を始めました。日本で、もっとも仕掛けの大きい網でしたので、だいぼう網といいました。網をささえる「うき」は太い竹を数十本たばねたものでした。網を固定するおもりは、砂の入った俵(たわら)でした。

 早春のころ初崎の広い砂浜で、うきをつくり、水揚げ場あたりでは砂を俵に入れる作業が始まるころが会瀬の春でした。だいぽう網が置かれてから会瀬での魚のとれる量が大変ふえ、浜は活気ずきました。サバ・マグロ・タイ・プリなどがたくさんとれ、大漁旗をたてた船がよく見られました。昭和十八年には一匹が百五十キログラムもあるマグロを二週間で五・六千匹という記録があります。重くて船につみ込めずに船ベリにぷら下げてきたほどです。東北地方から働きの来る人も多く、百人くらいが宿舎で生活していました。

昭和十一年に大謀網が始められた。規模の大きさでは当時日本一といわれた。漁獲高も増えたが特に昭和18年にはサバが一日で130トン。マグロ一匹150キロ程度のが半年で数千匹という日本記録を立てた。経営は新潟県の漁業家であったが漁師は東北地方からの季節労働者が多かった。

27a.jpg (34297 バイト)

27b.jpg (24858 バイト)

次へ進む)  (ふるさと会瀬の目次)  (会瀬のメニューへ戻る