第五話  会瀬小学校の誕生

 むかし、会瀬の子供たちが行く学校は助川小学校でした。今の日立製作所の敷地の高台の畑の中の道を通いました。 低いところは水田ですので、低学年生は遠いので大変でした。
 工場の町として人口も増え、昭和十三年には助川小学校の児童数が四千名をこえ茨城県で一番の大きな小学校になってしまいました。そのころ、通学路に工場がつくられることになりましたので会瀬の子どもたちのために、畑であった所に会瀬小学校の前身である助川第二小学校がつくられました。東向きの木造二階の校舎でした。昭和十五年に会瀬小学校と名をあらため独立しました。

校庭のまわりには桜・プラタナス・けやきなどの若い木などが植えられました。大人の腕ほどの細いいちょうも校舎の前に植えられましたが、今は南側に移っています。あの、いちようの木の年齢は約六十年なのです。会瀬小のシンボルになっている「けやき」も教室の前に植えられました。春や秋の遠足では多賀の桜川や、石切山に行きましたが、とくに石切山は卒業生の多くが行き思い出のある山です。夏には広い砂浜があった南浜で全校児童が水泳訓練をしたり、理科の時間には自然観察で学校の南側の森にいきました。
 相賀町や旭町の子供たちは線路を横切り寺の坂といわれた急な坂道を通って学校に行きました。

 明治十五年の資料によると助川小学校会瀬分校があった。明治十九年に公布された小学校令によって助川尋常小学校に吸収された。町村制実施により助川村と会瀬村が合併し、高鈴村となり、高鈴尋常小学校となった。大正十四年助川町になると共に助川尋常高等小学校となった。昭和十三年助川小学校は大規模化したため会瀬小と中小路小に分離した。

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