旧跡めぐり


水漏舎小学校

 水漏舎小学校跡は、鹿島神社の下側、弁天池のすぐそばにある。
木々に囲まれた空き地には「成沢教育発祥の地水漏舎小学校跡」と書かれた
白塗りの木碑が立てられている。
 明治5年(1872)に学制が発布され、成沢村では、明治6年7月、
神官であった瀬谷登之助の居宅広間を借り受け、「水漏舎小学校」を開設し
村の子女の教育を始めた。
明治6年12月には「成沢小学校」に改称された。




 明治10年4月、成沢、油縄子、諏訪の各小学校が当時の油縄子小学校に合併されるまで の4年間、
水漏舎小学校(成沢小学校)は、成沢村教育の礎を築いた。

 なお、水漏とは、水滴で時を刻む水時計のことで “水の滴りのように休みなく時を刻む姿 に、
勤勉第一を願う意味がこめられているとおもうが・・”と登之介の孫にあたる瀬谷義彦 茨城大学名誉教授は
歴史随想の中で述べられている。
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