久慈町 宮西英二
随分昔の事になるが、南米のアルゼンチンに2回行く事が出来た。
1970年11月から4ケ月間、1978年11月から4ケ月でいずれもガスタービン発電所の発電プラントの試運転
である。それ以降、軍事政権に移行し不幸な時代があつたが、今でも私には懐かしい国としてアルゼンチンへの想いが続いている。
アルゼンチンは大体地球のちょうど反対側に位置するので、日本から地球の中心に向かって穴を掘っていくとアルゼンチンにたどりつく、このようにアルゼンチ
ンは日本から遠く離れているので、われわれ日本人には馴染みが薄く、アルゼンチンタンゴ・サッカー・パンパス・牛肉などを連想する程度でしょうか。
スペイン語でJAPON(ハポン)は(日本)の意味ですが、ハポネス(日本人)は(めずらしい)という意味にも使われ、めずらしい形のナスでハポネスと呼
ばれるものがあるそうだ。
アルゼンチンは土着のインデオとヨーロッパからの移民(スペイン・フランス・イタリヤ・ドイツ・イギリス等)からなりたつており、他の中南米の国にくらべ
てインデオの比重が低いためヨーロッパの影響が強く首都のBUENOS AIRES(ブエノスアイレス)は南米のナポリと呼ばれていました。
アルゼンチンは農業・牧畜が主体で、気候が温暖であり生活は比較的安定しているので、国民は陽気で楽天的です。働くよりは遊び、生活をまず楽しむという行
き方です。
1回目の出張はMAR DEL PLATA(マル・デル・プラタ)という南大
西洋に面した都市でした。
MARは(海)、PLATAは(銀)なので、マルデルプラタは銀のようなおだやかな海面をもつと言う意味の港町です。(ブエノスアイレス)より南へ約
400km離れています。
最初にブエノスからマルデルプラタに行く時は鉄道を利用しました、鉄道の左右、村も山もない草原の中を一日ががりで行った訳です、世話をされた方が「1度
はこの風景を見てもらいたかったので、飛行機でなく鉄道を選らんだ」と言っておられたが、貴重な1人旅でした。
マルデルプラタは、気候がいいので避暑地となっておりホテル・レストラン・ペンションが沢山あります、都市の人口は約20万人ですが、真夏の土日の夜等は
200万人位に膨れあがります、首都のブエノスアイレス等では商店などを閉めてしまい1〜2ヶ月の休暇をとり、ここへ避暑に来る訳です。
真夏では日中40度近くになりますが、湿度が低いので大変しのぎやすい環境でした、汗をかくことがなく、1度駆け足をした時にすこし汗ばんだ事が有るくら
いです。(彼等は殆ど走ったりしません、走ったりすると泥棒と間違われると注意を受けました)
ガスタービンを明日初めて起動するという大事な時に、顧客の責任者である課長が1ヶ月のサマーヴァケーションを取りびっくりしましたが、こちらではそれは
常識であり以前からスケジュールが作られているのでしょう。
(アスタ・マニアーナ)は(明日まで)という意味で、別れる時は(チャオ・アスタ・マニアーナ)(明日までさようなら)と言います。物事の約束にもこの
(アスタ・マニアーナ)が使われ、その(明日)が毎日繰り返されどんどん伸びて行きます。この(アスタ・マニアーナ)は楽天的な国民性から出てくるので
しょうか。工程表などは絶対守ると言う気持ちはないようです。
工事が遅れているので明日の休日も働いてくれと頼んだら、「明日は女房と魚つりに行く事になっているので、行かなかったら女房に殺される」と、自分の頭に
ピストルを撃つ真似をします。彼らは、自分の生活をまず優先します。
アルゼンチンには日本から移民された方々がいます、その方々は花の栽培・クリーニング店・理髪店などをやられている方が多く、中華系の方は食堂・金融業な
どが多く日本人よりも商才があり生活レベルは上のようです(2世の方は上記の職業より幅広く色々な分野へ進出されている)、しかし日本人の方は誠実で勤勉
なので人々に尊敬されており、おかげで私などもハポネスとして好意的に扱われたのはありがたい事でした。
彼等は大変話し好きです、レストランの食事は昼・夜とも2時間はかかります、食事を注文してもすぐは出てこず待たされますし、食事がすんでもお茶をのみな
がら会話をしています。このように平生よく話しあいをしておれば、日本で一時問題になった親子断絶などは起こりようがないように思います。
レストランはイタリヤ・フランス・スペインなど各国の料理がありましたが、前菜の(冷やしたメロンにハム)がのせられているもの、チョリソと呼ぶ腸づめを
良く食べました、主食はビフテキです。ビフテキは火にあぶり、油を落としているので健康的な食べ物だそうです、腹をこわした時にはビフテキが最良と教えら
れました。
人々は屋外で(アサド)焼肉などをやります、牛などを丸ごと焼き各自切り取って食べます、みんな自分の食事用のナイフを携帯しています。(西部劇に出てく
るシーンです。)
アルゼンチンの公用語はスペイン語です、マルデルプラタでは話す言葉をスペイン語(エースパニョール)といわず(カステジャーノ)と言っていました、スペ
インのカステジャ地方で使われていた言葉の意味だそうですが、それ以上は良く分かりません。
スペイン語と縁が有った事は大変有りがたいと思います、中南米(メキシコ・ベネズエラなど)・スペインの公用語であり・アメリカのカリフォルニヤ州(サン
フランシスコ)ではスペイン語のTVチャンネルがありました。
タンゴなどの歌・アメリカなどでは地名がスペイン語です、スペイン語はイタリアにも似ています、スペイン語の発音は割合シンプルなので日本人向きかもしれ
ません。
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2回目の出腸はTUCUMAN(ツクマン)です。
ブエノスから北へ1000km離れた人口20万の都市です。こちらは内陸のため湿度も高く、雨も多い所でした。
日立市出身の43才の方にお会いし自宅へ招待されました、中学卒業後、会社の専門学校に入学し、工場にもつとめ19才の時パラグアイへ移民されたそうで
す、戦後移民の1号であるが移植地の環境は最悪で大変な苦労をされた。
8年間農業を続けた後アルゼンチンに移り、花作り・食料品運搬業・通訳・乾電池工場をへて現在は耐熱レンガ工場の工場長との事。
将来は広い土地を買い農業を遣りたいと言っておられた、長男でありながら移民される近所の家族に養子縁組して世界へ乗り出し、きびしい環境にも負けず頑張
り続け、将来への大きな夢を忘れないという男の生きざまに大変感動いたしました。
今のアルゼンチンはどのように変化しているでしょうか、1度インターネットで 覗いて見ようと思っています。