「海そして森と泉の里・水木散策コース」
(報告者:宇津 威)

日時:10月24日(日)
コース:泉が森公民館六ツケ塚古墳玉沢稲荷神社田楽鼻御番所跡はま菊の里水木海水浴場泉神社泉が森公民館ー解散

当日朝9時半に市民約50人が泉が森公民館広場に集まった。地元の人が殆どだが、中に遠方(田尻)から参加している人もいる様だ。軽い準備体操をして、10時前にスタート。

散策スポット 内 容
六ツケ塚古墳
泉が森公民館を出て海側に向かって歩く。245国道のすぐ近くに六ツケ塚古墳があった。古墳時代(3c〜7c)の遺跡。古墳は3号墳、4号墳と2つあった。いずれも円墳で直径18〜25m、高さ3〜3.8mという。近くの円方後円墳から発掘された遺物は、郷土博物館に展示されている由。古墳の上に茂っている松は、樹齢から見て戦後植えられたものらしい。
玉沢稲荷神社 六ツケ塚古墳から245国道を横切って暫く行くと、古ぼけた玉沢稲荷神社に出会う。後に出てくる金砂神社と何か関係があるらしいが、詳しい事はわからない。
田楽鼻
玉沢神社のすぐ近くに田楽鼻という太平洋に突き出た小さな岬があり、今は児童公園になっているが、昭和6年には、ここで金砂神社の大祭礼が行われ、大田楽舞が奉納された事を示す石碑が建っていた。石碑は2つ建っていて、大祭礼記念碑と、その大祭礼のいきさつを格調高い文で彫った記念碑があった。その文を読むと昭和の初めにタイムスリップしにた様な感慨を覚えた。
注:その文を末尾に付記した。
御番所跡
田楽鼻から北上すると、すぐ御番所跡に着く。今は河村家の敷地内だが、当家の川村巳三夫氏が建てた碑があった。それによると、文政7年6月(1824年)、当時このあたりの郷士だった河村家に、徳川斉昭から海防番所を勤める様に指令が出されている。河村家の敷地の太平洋に面した崖の上に、2間X4間の建物が建てられ、当時2人〜4人が詰めて海の見張りをしていたという。
はま菊の里
水木の海岸に降りると、海岸の崖の湧き水の出ている付近に、浜菊が咲いていた。私は初めて知ったが、日立付近が南限だという。葉が肉厚なのが普通の菊に比べて特徴の様に思った。その他に、つわぶきの黄色い花も咲いていた。
水木海水浴場 海水浴場の砂浜で昼食の弁当を食べて、その後、宝探しや、ゲームなどをして楽しい一時を過ごした。
泉が森神社
水木海水浴場を後にして、再び245国道を横切り、松山下団地を抜けて泉が森・泉神社に着く。この神社は、天速玉姫命を祭る延喜式内社で、傍にある建立碑に来歴が詳しく書かれている。本殿の西側の窪地に、常陸風土記にも出てくる有名な泉の湧く池がある。この付近で育った人は、夏の暑い日、学校帰りにこの泉の池に飛びこんで遊んだそうだ。今は水量が少なくなってきていて、少し寂しい気がする。
泉が森公民館
公民館の玄関を入ってすぐ右に水槽があって、生息地が水温の一定した湧水地に限られる特殊な淡水魚、イトヨが飼われていた。この近くに最近まであった湧水を利用した養鱒場に、鱒と一緒に運ばれてきたものらしい。今も養鱒場に生息しているというが、他から運ばれてきたという理由で、天然記念物には指定されていない由。2時半頃、参加者の感想など求められたあと、解散した。Jきららでは、南部の梅津さんが参加されていた。歩数は約13,000歩

注:金砂神社碑文
金砂神社ニハ東西ニニ社アリ西金砂神社ハ久慈郡金砂村西金砂山ニアリ東金砂神社ハ同郡天下野村東金砂山ニアリ共に郷社タリコノ社伝説ニヨレハ多賀郡坂上村水木浜ヨリ九穴ノ鮑ニ乗リ上陸金砂山に祭祀タルヤニ伝ウ故ニ水木浜ト金砂山トハ縁由浅カラス金砂神社ノ創立ハ大同元年ニシテ常陸ノ古大社タリ又大祭礼ハ仁寿元年三月ニ始マリソレヨリ七十三年毎ニ挙行即チ昭和六年マデ十有六度ナリ必ス水木浜ニ渡御シ田楽祭事ヲ行フ故ニ水木浜ニ田楽ト称ス所アリ斯ル縁由ニヤ金砂講社アリ西金砂山ニハ毎年霜月十三日十二合祭事に講社代参人三十四名参列シ東金砂山ニハ毎年旧正月三日嵐除祭ニ代参人参列スルヲ例トス其起原幾百年昔ヨリ始リタルヤ文献ノ徴スヘキモノ乏ク為ニ不詳然レドモ今ニ至ルマテ其ノ講中ノ断絶シタルコトナキハ敬神思想ノ発露ナリトイフヘシ世ハ種々ニ変遷シ敬神ノ観念次第ニ薄ラキツツアルニ水木ノ講社ハ終始一貫変遷ヲ見サルハ世ノ亀鑑トスルニ足ル之ヲ不朽ニ伝ヘント講社相計リ記念碑建設ヲ計画シテ予ニ其ノ碑文ヲ請ウ依テ其ノ美挙ヲ賛シ浅学非才ヲ顧リ見ス之ノ文ヲ草稿スト爾云ウ
昭和九年八月 郷社西金砂神社社司 中島幸親 撰文選書

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