日時:1999年10月11日(月)、東金沢公民館、8時半集合   (報告者:宇津 威)
コース:東金沢公民館ー金沢弁天公園ー大沼小学校ー東山ー望洋台ー海防役宅跡ー諏訪森公園ー大沼宿駅問屋跡ー延命地蔵尊ー東金沢公民館
注:夫々の場所の説明は、当日案内をして頂いた檜山さんの説明と、当日配布された資料「大沼マップ・ふるさと巡りコース」を参考にしている。

 体育の日の振替休日、爽やかな秋晴れの朝、東金沢公民館の中庭に、市民30人ほど、事務局の方を入れて40人ほどが集合した。軽いストレッチング、準備体操をした後、8時45分檜山さんの案内でウオーキング開始。

金沢弁天公園
 東金沢公民館から歩いて5〜10分位で金沢弁天公園。鬱蒼とした木立で、昼でも公園内は薄暗い。公園内に、弁天池(湧き水が僅かながら湧いている)、厳島神社がある。

 弁天公園の隣に高野墓地があって、その一角に、昔唯一の動力源であった馬の守護神を祭った、馬頭観世音、馬力神の石碑が沢山建てられていた。
 馬頭観世音の石碑の方が、馬力神の石碑よりも古く、江戸時代からのものという。当時は、馬は生活に欠かせない動力源だったから、こうして石碑を建てて馬の無事を祈願したのだと思った。

大沼小学校

 その次に、大沼小学校を訪れる。休日だったが、十数人の生徒が先生の指導で100m走の練習をしていた。大沼小学校は、昔昭和26年に、小、中学校の併設実験校として開校されたいきさつを持つ。昭和38年に、中学校が泉丘中学校に移って行ったので、小学校としては、日立市内で最も多い教室、広いグラウンドを持つ事になった。昭和53年のピーク時には、小学校生徒数1800人を越えたが、現在は550人という。西洋朝顔の青い花が、校舎の3階まで滝の様に咲いていた。

大沼海防陣屋跡
 次ぎに、東山と呼ばれる大沼海防陣屋跡に行く。
今は、何の変哲もない民家の間の更地であったが、徳川斉昭の頃、ここに高さ3m位の土塁が築かれ(1836年)、大砲5門が海に向けられていたという。今は、民家や工場建物があって見通しが効かないが、昔は、海がすぐ近くに見えた筈(海岸まで500m位)。鉛の弾だと1300m位、鉄の弾だと1000m位飛んだという。 大沼海防陣屋跡の近くに、ここに詰めていた武士の野内家の子孫の4代目の方の住宅があった。さすがに敷地は広い。

望洋台(一里塚ロードパーク)
 次に、国道245号に出て、望洋台に着く。ここで、冷たい飲み物のサービスを受ける。改めて、太平洋が一望に出来る景色の素晴らしさに、日立に住む幸せを感じる。

国道245号は、日立製作所の重量製品を日立港まで運搬するため、鉄筋コンクリート層が厚さ2mもあり、その上に、アスファルト舗装がなされた特別施工の道路と聞かされる。
海防役宅跡
今度は、国道245号から別れ、山側に向かい、大沼川沿いに歩く。1km位歩いて、大沼地箕輪の海防役宅跡に着く。

 大沼海防陣屋で警備する武士に、海防役宅4棟が建てられた(1836年)。甲子の乱で3軒が焼失。1軒だけ残ったのが、この横山邸。現在の横山邸は、昭和36年に新築されたものという。当時の武士、横山介佐衛門の子孫、5代目の横山さんが挨拶に出てこられた。当時の武士には、自給自足の為に、農地が与えられたというから、さすがに敷地は広い。

諏訪森公園
 海防役宅跡を後にして、6号国道方面に向かうと、諏訪森公園があった。
諏訪森公園には、樹齢450年という見事なシイの大木が生えている。江戸時代のこのあたりは、寂しい森だったのだろうなあと、想像する。ここに昔は、諏訪神社というのがあったそうだが、慶長7年(1597年)、戦乱や疫病の流行があったので、大沼村の村社を大山祇神社(現在の県営根道アパートの隣の森の中にある)に定めて、諏訪神社を移し、病災消除を祈願したそうだ。

大沼宿駅問屋跡

大沼自動車学校付近で6号国道に出る。このあたりには、江戸時代、日立を通る岩城相馬街道沿いに大沼宿駅問屋があったそうだ。この大沼宿駅問屋は、小泉家が世襲制で代々運営し、年貢の取りまとめ等をしていたと言う。小泉家は、今も地元に居住していて、問屋さんと呼ばれ親しまれているという。

延命地蔵尊

6号国道上り車線沿い大沼自動車学校の隣に小泉家があり、その裏手に小泉家の墓地がある。その一角に、地蔵菩薩「延命地蔵尊」があった。1763年建立だそうだ。墓地の一角の寂しい所にあり、とても、そんないわれのある地蔵尊には見えなかった。

以上でコース巡りは終り、11時半に東金沢公民館に戻る。歩数は約13、000歩だった。判りやすい檜山さんの説明や、殆ど通った事のない道を歩いたりして、新鮮な刺激を感じた有意義なウオーキングだった。Jきららでは、南部の梅津さんが参加していた。


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