(1).左の地図は八景選定当時の水戸周辺の
街道・宿場図です。
水戸には江戸からの水戸街道をはじめ、
海岸沿いに陸奥方面へ行く岩城相馬街道、
太田経由で棚倉に至る棚倉街道、
大子経由の南郷街道、ほかに茂木街道、
結城街道、飯沼街道、瀬戸井街道などが
出入りしていました。
図中の赤い線が水戸八景のル−トです。
参考文献
「水戸市史 中巻(2)」に掲載の
「常陸国交通図(元禄)」と、
「富士見十三洲與地全図」(天保14年発行)の
「常陸・下野・上野三国図」より作成。
(2). 上図は 弘道館ができた天保から安政年間(1840-50年代)の水戸城下町上市の地図
です。これは水戸市史中巻(3)に掲載されている「天保城下町図」と、新編常陸国誌の
「安政中水戸上町図」を参照にして作成したものです。
(3).水戸城は台地の上に建てられ、北は那珂川、南は千波湖で守られ、東は崖になって
います。また西は本丸から順に三の丸にかけ3本の内堀(水郡線・旧6号線・旧県庁の堀)と
紀州堀(現太田街道)・外堀(現大工町通り)で守られていました。現在の50号線は各所で
カギ型に曲がって敵の一気の侵入を防ぐ構造になっていました。
また台地の南北にある寺社は守備隊の拠点となりました。
(3).茨城大学の長谷川助教授によると、水戸は風水の理想的配置を直角に反時計式に回転
させたものだそうです。即ち、北:大河(那珂川)・南:大道(水戸街道)・東:平地
(下市)・西:山(現水戸ゴルフ場内にあった富士山)となります。
この山から龍脈が降りて「穴」(大工町)に入り、そこから現在の50号線に沿って「気」が
流れて「明洞」(水戸城)に至ります。
この50号線は磯前神社の方角に向かっていて、夏至には太陽が正面に来ます。鬼門は静神社
裏鬼門は吉田神社にあたります。
(5). 比較のために現在の水戸市中心部の地図を下に示しました。
千波湖が埋め立てられて大分小さくなったほか、弘道館の調練場に県庁が、水戸城跡に学校が
建ち、青柳の渡しの場所に新万代橋が架けられ、また中御殿のあった場所近くには水戸駅が
できている事がわかります。
(6).千波湖の埋め立ては、大正4年の陸地測量部と現在の国土地理院の1/25,000地図を
比較してみるとよく分かります。