日立の桜の由来・桜塚
 2013年4月
 公害対策と桜
 日立鉱山が開業した当初(明治後半)からいわゆる亜硫酸ガスの排煙による公害が地域の農作物や山々の木々がかれや人々の健康に悪影響を与える重大な社会問題となりました。その対策への取組みとして、長大煙突に見られる排煙設備の工夫、気象観測ネットワークの構築、制限溶鉱、耐煙性稲品種の栽培、一千万本の植林など大変な苦労をしました。
煙害対策の一つとしてとりあげられたさくらの植林事業が発端となり、現在の東海村に試験場を作り、塩害に強い樹木としてオオシマザクラを選び、高山周辺の山々に大量に植えられました。やがて、「さくら」は、鉱山・日製社宅周辺、学校等にも植えられました。
   
 
社宅周辺の桜植林・桜塚
  日立鉱山4代目所長の角弥太郎氏が、大正6年春ころよりソメイヨシノを、ここ諏訪台、鉱山社宅周辺地域、鉱山電車沿線ほかに植栽し(約2000本)、市街地の美化に大きく貢献しました。
 桜塚は角氏の貢献を検証するため昭和9年4月10日に当時の日立製作所日立工場長の高尾直三郎氏が建立したものである。 氏の自費で建立、碑面は氏の揮毫による。
      「桜塚 大正六年春 角弥太郎氏 諏訪台に桜樹を植う 昭和九年四月十日」
 ここ諏訪台には約100本のソメイヨシノを植樹。 除幕式には大人は呼ばずに子供会のみの参加で行われ、高尾氏は角氏の業績を伝えました。
   
 
第2次大戦後のさくら

 戦災で多くの桜の木を失いましたが、昭和20年代後半頃より市内に積極的に桜を植林し、平和通りや神峰公園に代表される桜の街を築きました。また「サクラ」は市の花にも選ばれました。

 毎年、4月初めには「日立さくら祭り」が開催され、平和通のライトアップ、「サクラロードレース」が行われ、また、「日立風流物」お実演が行われます。


(文責、写真提供 八巻秀雄)

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