宮田川周辺の歴史

2008年12月
 宮田川は神峰山と高鈴山を源とした川で、日立市街地を通ってJR日立駅北の川口に注がれています。川の断面はV字型で、川口近くでは16メートルの深さにもなっています。このような宮田川を堺にして、奈良時代には南側は久慈郡助川里、北側を多珂郡道前里(みちのくちのさと)に別れていました。
 近年、この宮田川流域から日本を代表するような鉱工業が発祥し、一大繁栄があったのでした。この歴史的な一端を、上流から順に紹介いたします。


日鉱記念館入口
 新本山トンネルを出てすぐに、日鉱記念館の入口があります。この記念館は新日鉱グループが運営していますが、創業百周年の平成17年10月に展示整備が行われました。記念館の中に大煙突の展示もあります。大煙突落成時の記念写真のパネルでは、人物が鮮明に写っており、大煙突を作った時の図面と共に見ることができます。

 本山の一本スギ
 本山の一本スギは、県道36号・日立山方線の中央に立っています。古くはこの地にスギの大樹が林立していましたが、赤沢鉱山時代から次々に枯れ3本が残っていましたが、明治35年9月の大暴風雨で2本が倒れ、現在の1本のみが残りました。道路整備の折には伐採の案も出されましたが、貴重な遺産として残されました。スギは川原に立っていましたが、2メートルほどかさ上げされ幹の一部が埋まりましたが、現在も交通安全の守りとして樹勢を維持しています。
 この一本スギ近くには本山劇場がありました。本山劇場は、共楽館より4年早く大正2年8月に開場したのでした。

一の鳥居
 標高598mの神峰山の頂上には神峰神社奥の院があります。参道の一の鳥居は宮田川沿いに設けられています。

陰作発電所跡
 茨城県内最初の発電所となった陰作発電所は、一の鳥居近くを流れる陰作川から取水したものでした。出力33kWの水力発電所はドイツの2社から輸入した水車と発電機を組み合わせたものです。これは、久原翁が日立鉱山を取得する直前の明治38年12月、赤沢銅山が完成させたものでした。

日鉱金属株式会社と大煙突
 日鉱金属株式会社の構内には、徳川斉昭の歌碑があります。
 
瑞穂橋の向こうに共楽館
  日立鉱山で働く社員の厚生施設として大正6年に工費3万5千円の大金を使い共楽館ができました。現在日立市に寄贈され日立武道館として利用されています。間口16間、奥行21.5間の大型木造建築で、この大きさにもかかわらずこの空間には1本の柱も無い貴重なものです。平成13年国の登録文化財となりました。

宮田川の川口と笠置島(右)
 宮田川は常磐線下の隧道を出て、渚橋で川口になります。写真は渚橋たもとから撮ったもので、右側の岩が笠置島と呼ばれています。
 笠置島には八幡太郎義家の伝説があります。奥州へ兵を向けた際、この辺に立ち寄り休憩しましたが笠を置き忘れたので笠置島の名が残りました。写真に木造の橋が見えますが、その先の海岸バイパス道の建設用の仮橋だったもので、現在は撤去されています。


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