小豆洗館跡

 天正8年(1580)佐竹軍賦に山直域主付きの5館主(平館、沢舘、塙館、相賀館)の一人として小豆洗館主佐藤右馬之介の名前があります。小豆洗舘は鮎川南岸で大学橋の下流流域に比定されます。写真(右)付近
 「日立市史」に「小豆館、佐藤右馬亮藤原禿信先年より佐竹家臣、明徳元年より油縄子に住す。永楽二十七貫を賜り代々佐竹に仕う」とある。天正13年(1585)に岩城親隆が多賀郡に侵攻したとき、この館主等は防衛に努め或いは滅び或いは降ったといいます。岩城氏の多賀郡占拠は天正16年(1588)まで続きました。
 川の対岸の北側(東成沢町、戸崎)に小豆洗不動尊がある。 崖を横手に鮎川の流れのカーブを見下ろすように東面して建てられ、社前右手の四メートル位の崖から小流を落して瀧になっている。佐藤家の氏神であったといわれる。
 小豆について「地名」に、「アズは「崩れた崖」の意。小豆は当て字」とあり、「日本の地名」に、「アズ、アスは崖の崩れやすい所をいう古語で崩岸の意としている云々」。谷筋が崩れて岩などが堆積しているような所をいう。 

          崩岸(あず)の上に駒をつなぎて危かど
          人妻子らをいきに我がする

 「万葉集」などのように古くはよく使われたのである云々」とある。戸崎の小豆洗の不動様あたりの岩地のくずれ易い地形を思い出したが、「同書」よりアズのつく地名を記すと、
          埼玉県飯能市阿須(市の南部入間川右岸)
          長崎県下県郡厳原町阿須
          滋賀県高島郡旧安曇町
          東京都板橋区小豆沢町
          茨城県北茨城市華川町小豆畑

 北茨城市の小豆畑は大北川支流花園川の中流の崖地であるが、小豆畑の畑は耕地でなく崖地の端らしい。 

出典:地名を訪ねて(瀬谷房之助 昭和56年11月10日第2刷発行)より抜粋

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