日立鉱山の煙突

 銅鉱山の精錬所には鉱石に含まれる硫黄成分から亜硫酸ガスが流れ出し、周辺の農作物や山林へ害をおよぼすことは避けられない問題であった。初めての煙害問題は1907年、当時、本山に在った本山精錬所で起こった。
 事業規模の拡大に伴い、ふもとの大雄院精錬所を作るに当たり、企業として地域住民に対する誠実な対応による信頼性.を重視し煙害対策に努力をした。
 大雄院では、当初、八角形の高さ24mの煙突で対応したが精錬所規模の拡大に伴い、煙害の被害も拡大をしていった。これは八角煙突と呼ばれた。精錬所は事業の安定化のため他の鉱山から鉱石を買い求め銅の生産増大を図り、最大時は処理量の50%を他の鉱山からの買鉱が占めていた。
 対策とした2代目は希釈をするための排煙を考え、約600mの煙道を山肌に設け、途中、十数ヶ所から排煙し、先端にも煙突を設けなかった。これは神峰煙道、通称を百足煙道と称された。空気より重い亜硫酸ガスは谷筋に沿って流れ濃縮されかえって被害を大きくした。

 この頃になると、他所でも精錬所の煙害が問題化し、政府は「排煙ガス濃度制限令」を出し、それに伴い、日立鉱山でももう一つ煙突を作ることになり高さ36m、直径18mのもを建設し、内部に6基の空気とガスの混合装置を設けた。この煙突は出口での濃度は制限値以下に抑えることが出来たが、煙の温度が下がり、地表に停滞して反って被害を増大した。この煙突は形からダルマ煙突、そして、政府の指示で作られたため命令煙突、更に、機能を発揮できなかったことから阿呆煙突と言われた。

 ダルマ煙突を作る頃から地表へ希釈した煙を排出することの行き詰まりに気がつき次の案が検討され、確証がなかったが大煙突を建て、大気中に広く拡散させることを試みることとした。これは当時としては実績もなく、経営者久原房之助氏の逆転の思考と言われた。1914年12月に工期9ヶ月という速さで完成した。世界一の高さを目指し、155.7m、当時としては珍しい鉄筋コンクリート製である。この煙突は排煙の希釈の役割を果たし、1981年の閉山まで活動し、更に、その後が日鉱金属日立工場として他の業務に利用されている。

 1993年2月、この煙突は三分の一を残し倒壊した。現在は修復され高さ54mの煙突として利用されている。
日立鉱山は煙突による対応だけではなく、煙害に強い樹木の植樹や気象観測などにも大いに努めた。閉山25年、周りの緑は一見回復しているが自然の状態まではいってないそうである。
 高い排気塔を建て、高空で希釈拡散させる方法は現在でも多く利用され、大規模火力発電所や原子力発電所の排煙、排気塔はこの考えにより作れられている。

(上記の煙突に関する説明は日鉱記念館の展示パネルの内容を要約したものです。下の写真も同記念館より提供を受けたものです)


稜線に沿って、「2代目神峰煙道」、「初代八角煙突」、「3代目達磨煙突」、「4代目建設中の大煙突」
1914(大正3)年


左の写真は神峰煙道


大煙突(昭和40年頃・最盛期)


記念館に展示されている大煙突の写真パネル

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