日立鉱山の煙突
銅鉱山の精錬所には鉱石に含まれる硫黄成分から亜硫酸ガスが流れ出し、周辺の農作物や山林へ害をおよぼすことは避けられない問題であった。初めての煙害問題は1907年、当時、本山に在った本山精錬所で起こった。 この頃になると、他所でも精錬所の煙害が問題化し、政府は「排煙ガス濃度制限令」を出し、それに伴い、日立鉱山でももう一つ煙突を作ることになり高さ36m、直径18mのもを建設し、内部に6基の空気とガスの混合装置を設けた。この煙突は出口での濃度は制限値以下に抑えることが出来たが、煙の温度が下がり、地表に停滞して反って被害を増大した。この煙突は形からダルマ煙突、そして、政府の指示で作られたため命令煙突、更に、機能を発揮できなかったことから阿呆煙突と言われた。 ダルマ煙突を作る頃から地表へ希釈した煙を排出することの行き詰まりに気がつき次の案が検討され、確証がなかったが大煙突を建て、大気中に広く拡散させることを試みることとした。これは当時としては実績もなく、経営者久原房之助氏の逆転の思考と言われた。1914年12月に工期9ヶ月という速さで完成した。世界一の高さを目指し、155.7m、当時としては珍しい鉄筋コンクリート製である。この煙突は排煙の希釈の役割を果たし、1981年の閉山まで活動し、更に、その後が日鉱金属日立工場として他の業務に利用されている。
1993年2月、この煙突は三分の一を残し倒壊した。現在は修復され高さ54mの煙突として利用されている。 (上記の煙突に関する説明は日鉱記念館の展示パネルの内容を要約したものです。下の写真も同記念館より提供を受けたものです) |
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記念館に展示されている大煙突の写真パネル |