日立市周辺の古墳時代の概要
「古墳時代の日立」
4世紀にはいると、金砂郷町・大宮町・常陸太田市あたりの久慈川中流域で前方後円墳や前方後方墳の築造がはじまった。日立地方でこの時期の古墳が見あたらないのは、おそらく最初の古墳を築造したこれらの首長の支配下にあったからであろう。ところが5世紀になると、久慈川下流域(東海村・日立市)で規模の大きな前方後円墳が築造されるようになる。これはヤマト政権の活発な軍事行動を受けて久慈川流域の首長層が動揺し、流域をおさめる首長権が中流域から下流域へ移ったからだと考えられる。また、5世紀にはカマド、鍛冶の技術などが伝わってきて、人びとの生活も人きく変化するのである。
6世紀の中ごろには、何度でも追葬可能な構造の横穴式石室が日立地方にも伝わってきた。これによって古墳は、特定の個人が埋葬される墓から有力な民衆の家族墓へと、性格を大きく変えていくことになった。また、6世紀後半には、台地の斜面などに横穴を掘って墓とする横穴墓が伝わってきて、高塚式の古墳と並行した墓づくりが繰り広げられた。
西暦600年ごろになると、前方後円墳の築造がほぼ全国的に終わった。時を同じくして、日立地方を含む東国では、埴輪をたてる風習もみられなくなった。これはヤマト政権が古墳の築造を強く規制したからだと考えられる。ヤマト政権は、このころまでに蘇我、大伴、物部といった人豪族たちの力を背景にして、より強力な地方支配体制を整えつつあったのである。
「横穴墓の出現」
6世紀後半の日立地方には、台地や丘陵の斜面に横穴を掘って墓とする横穴墓(おうけつぼ)が伝わってきて、高塚式の古墳と並行した墓づくりが展闘される。横穴墓は、県内だけをみても久慈川以北の地域に多数つくられるというように、明らかに偏在する。こうした背景には特定氏族の集団移住があったとする考えもある。
横穴墓は簡略な構造で、身分の低い人びとの墓とされてきたが、赤羽横穴墓群B支丘1号墓から出土した豊富な副葬品は、そうした常識を覆すものであった。
ここでは、現存する日立の古墳・横穴墓から幾つか選んで紹介する。
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