寺社・史跡

 八幡神社 ● お天王さま
 普済寺跡  相馬の碑
 要害城跡  小豆洗館跡
 御稗蔵跡  伝染病隔離病舎
  (避病院)跡

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八幡神社

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 康平元年(1058)、山城国石清水八幡(京都府、祭神は誉田別命ほか2柱)の御分霊を勧請したと伝えられています。武家源氏は八幡宮への崇敬が厚く、この時期に奥州遠征のためこの地を通る八幡太郎義家軍の戦勝を祈って、この地の住民が御分霊を祀ったものと察せられます。

 春(4月15日)秋(10月15日)の例祭のほか、若衆や子供達にとって楽しい境内社大杉神社の夏祭「あんばさま」があります。
また、新年の元朝詣りは境内をいっぱいに埋める人で大変な賑わいです。



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お天王さま

 諏訪町1丁目の住宅地の中、榊の大樹の脇に祀られています。建立の時期は不明ですが、古老によると、この地域に疫病がはやったために下総国の観福寺(千葉県香取郡山田町)より大六天王の御分霊を観請して、悪病ばらいを祈願したと言われています。

 4月15日をお天王さまの祭礼日として、昔は町内をあげて盛大でしたが、現在では、主婦を中心にささやかにおこなわれています。

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普済寺跡

       鮎川町2丁目、秦病院の駐車場のところにあった真言宗の寺で、水戸藩の社寺改革で廃寺になったと推定されます。天保12年の検地絵図には塔、本堂、庫裏が描かれています。除地23石の大きな寺でした。当時のものとしては僧侶の墓石と地蔵堂に納められた地蔵尊と如意輪観音の石像が残っています。

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 「ゆなご地蔵堂改築記念碑」には、ゆなご地蔵尊由来として下記の如く記されています。

 ゆなご地蔵尊は遠い昔からこの地に安置され、安産子育、延命のお地蔵様として地域の人達の深い信仰を集めて参りました。地蔵菩薩は二仏中間の仏と言われ、釈迦滅後五十六億年後に世に出る弥勒菩薩までの間、人々の苦しみ、悩みに答えてすべてを救い助ける御誓願を持っておられるから大衆の信仰がこれを護ってきたものでしょう。
 元来旧国道添い元普済寺参道入口に安置されていましたが、昭和三十六年八月元普済寺境内、海岳山山門東側門柱跡地に移奉されて今日に至りましたが、近接の大樹の元に在り、幾度の風雪害のため堂宇の荒廃甚しい為、この文化財的な地蔵尊堂改築のため、多くの方々より浄財を仰ぎ山門跡地より東々北のこの所に改築建立されたものです。願わくば限りない慈悲を……合掌

尚地蔵尊堂の改築に当り元普済寺住僧の墓地を整備、墓石の整頓尚旧地蔵尊堂周辺に点在の野立ちの元住僧墓石を住僧墓地に移奉し、普済寺の礎石、寺への奉納碑等もそれぞれ適所に移奉をしました。願わくば歴代の先哲、住僧、霊あらば天界より地上の万物に平和と生成を賜ります様……合掌   昭和六十二年三月  吉日

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相馬の碑

soomahi1.jpg (29965 バイト) 永禄5年(1562)佐竹領に侵攻した相馬盛胤の軍勢が、孫沢原で佐竹勢の反撃にあい多勢の戦死者を出して背走しました。その戦死者の霊を弔うため建立したのが相馬碑です。

 後年、参勤交代のため、ここを通った相馬藩主がこの碑に詣でて桜を植えて

 春来れば彼岸桜は咲きにけり


 身の哀れさは孫沢にあり

と詠んだということです。

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要害城跡

yoogai1.jpg (32839 バイト) 佐竹氏18代義昭(1530~1565)の家臣で孫沢権太夫頼茂という人が館主として居住していました。もとは桜川の南岸にありましたが永禄5年(1562)の孫沢合戦で焼失し、天正の初め(1573頃)北岸に再建したといいます。
 現在の要害クラブのあるところが中心で多賀病院のあるあたりを北の郭といいました。いまでも空壕が一部残っています。

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小豆洗館跡

azukiar1.jpg (20504 バイト) 天正8年(1580)佐竹軍賦に山直城主付きの5館主(平館、沢館、塙館、相賀館)の一人として小豆洗館主佐藤右馬之助の名前があります。小豆洗館は鮎川南岸で大学橋の下流流域に比定されます。

 天正13年(1585)に岩城親隆が多賀郡に侵攻したとき、この館主等は防衛に努め或いは滅び或いは降ったといいます。岩城氏の多賀郡占拠は天正16年(1588)まで続きました。

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御稗蔵跡(鮎川町2丁目町内)

 備荒貯穀(飢饉の時の用意)のための御稗蔵は水戸藩では光圀時代に創設されましたが、油縄子村には、文化6年(1809)に作られました。建物は長さ22間、横3間の藁葺きで、建設費は土地代とも藩の負担でしたが、蔵番の給料は近在の村の負担でした。後に5棟に増設され、日立地方最大の御稗蔵となり、常平倉(米価調節と需給安定のための貯米倉)としてもその役割を果たしていたと言われています。
 明治維新後、この建物は小学校舎として利用されたこともありました。

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伝染病隔離病舎(避病院)跡

hibyoin1.jpg (17656 バイト) 明治31年の隔離病舎設置の県令により、大正8年に鮎川国分両村組合立として設置されました。現在の鮎川町3丁目、日立化成の桜川工場の東側あたりで、建坪55坪患者収容11名の規模のもので、コレラなどの患者を隔離治療する施設でした。
 当時のこの辺は人家もない寂しい所で、周りを高い土手とカラタチの生垣でかこまれた建物で地域の住民にとってはなんとも近寄り難い感じでした。

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