油縄子学区のマップと概要

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  「油縄子学区のあらまし」
 

 油縄子学区は南北を桜川と鮎川に挟まれ、東は大平洋に面し、西は諏訪学区と境を接していて、中央を国道6号線が、海側を国道245号線が通っています。学区は下記の町名から構成されています。鮎川町、国分町、諏訪1丁目の一部、桜川町3丁目の一部多賀町4丁目と5丁目の一部。

 中世は佐竹氏の支配にあり、その重臣である人窪城主や山尾城主に属した何人かの館主がその地域地域の中心的役割を果たしてきたと推定されます。
 八幡神社は佐竹氏の加護のもと、地域住民を氏子として信仰を集めていましたがた、水戸徳川氏の忌避にあい、一時、諏訪地域に隠匿されたと伝えられています。今も諏訪地区に地名が残り、また諏訪神社の察事を八幡神社に迎えるのは、その感謝の表れと考えられます。

 江戸時代は油縄子村、河原子村、諏訪村、下孫村(明治になって一部が国分村になった)にわかれていて、夫々の一部で油縄子学区が構成されました。旧6号国道に沿って宿ができていて南から表原、二ノ宿並、宿並、坂の上、坂の下といいました。江戸時代末期、坂の下に穀物問屋が開かれ荷駄をつんだ馬が盛んに往来したといいます。

 明治になって油縄子、諏訪、成沢が含併し鮎川村になりましたが、役場や駐在所も坂の下におかれました。

 油縄子学区は、昭和14年に日立製作所多賀工場が誘致されて大きく変化しましたが、これを契機として鮎川、河原子、国分村が含併し多賀町が誕生しました。多賀王場の建設に続き、国分鋳物王場、酸素工場、鮎川工場、刷子工場そしてその関連施設があいついで建設され、軍需によって規模が拡大しました。こうして山林、畑地、原野はたちまち変貌しました。太平洋戦争の艦砲射撃、焼夷弾攻撃はこの地域にも甚大な損害を与え尊い人命、財産が失われました。殊に八幡神社周辺て女子学徒、女子挺身隊の若い命が多数失われたことは衰れで涙をそそられます。

 戦後、鮎川王場の跡地に工場建屋を利用し多賀中学校が開校しました。刷子工場を分割し多賀高等学校が建設され更に、多賀中学校の敷地を分割し油縄子小学校が、そして養護学校が創られました。こうして油縄子学区は工業と文教のまちとして発展してきました。

「油縄子学区関係年表」

和暦     西 暦    事  柄
康平元年 1058  八幡神社を勧請と伝える
明徳元年 1396  佐藤氏油縄子村小豆洗館に居住
永禄5年  1562  佐竹氏と相馬氏、孫沢付近で戦う(孫沢合戦)孫択館焼失
天正初年 1573頃 孫沢館(要害城)北岸に再建
天正8年  1580  佐竹軍賊に小豆洗館主佐藤氏がみえる
天正13年 1585  岩城親隆多賀郡に侵攻し佐竹氏と戦い多賀郡占拠
慶長7年  1602  佐竹藩秋田に移封される
元禄年間 1687頃 普済寺河原子より移転
文化6年  1809  油縄子村に稗倉設置
文政6年  1823  油縄子村下宿に穀物問屋設置さる
天保2年  1831頃 普済寺廃寺となる
元治元年  1864  天狗、諸生の乱、金沢村の戦いで鮎川村から戦死者がでる
明治6年  1873  鮎川連含役場設置(会瀬、諏訪、成沢、油縄子の連合)
明治6年  1873  油縄子小学校設置(原新田)
明治16年 1883  油縄子小学校稗蔵に移転(明治22年成沢に校舎新設)
明治22年 1889  会瀬、諏訪、成沢、油縄子で鮎川村となる。
大正8年  1919  国分鮎川伝染病隔離病舎設置
大正10年 1921  油縄子下宿に巡査駐在所設置
大正11年 1922  鮎川村消防組含設立(現在の第10分団)
昭和7年  1932  旅館組含が鮎川河口を塞き止めプールをつくる
昭和13年 1938  鮎川郵使局開局(昭和57年成沢へ移転)
昭和14年 1939  鮎川村、国分、河原子と合併し多賀町となる
昭和14年 1939 酸素工場操業開始(昭和31年独立)
昭和15年 1940 日立製作所多賀工場の刷子工場、鮎川工場操業開始
        (刷子工場は昭和39年(株)日立化成となる)
昭和15年 1940 多賀高等工業学校油縄子寮竣工(後に好し洋寮と改称)
昭和16年 1941 国分鋳物王場操業開始(昭和32年独立)
昭和17年 1942 多賀病院日立病院分院として開業(昭和28年独立)
昭和20年 1945 7月17日艦砲射撃、19日焼夷弾攻撃により被災
昭和20年 1945 進駐軍鮎川寮、希誠寮に駐留
昭和22年 1947 日立電鉄鮎川、桜川駅開業(大甕鮎川間開通)
昭和22年 1947 多賀中学校開校(昭和45年大久保分校に別れる)
昭和28年 1953 多賀高校開校
昭和30年 1955 日立、多賀、久慈、中里、坂本等合併し新日立市誕生
昭和30年 1955 油縄子小学校開校(昭和37年上諏訪小を統合)
昭和31年 1956 油縄子保育所開所
昭和34年 1959 新6号国道開通
昭和40年 1965 多賀田工諏訪町のl部より多賀町4、5丁目桜川町3丁目ができる
昭和41年 1966 油縄子田工多賀田工諏訪町の一部で鮎川町となる
昭和42年 1967 河原子町、多賀町、油縄子町の一部で国分町となる
昭和43年 1968 日立養護学校高等科開校
昭和43年 1968 油縄子巡査派出所開所
昭和44年 1969 婦人の家竣王(平成5年改築愛称らぽ一る日立)
昭和48年 1973 鮎川をきれいにする会発足
昭和50年 1975 萬春園問園
昭和50年 1975 油縄子市民運動協カ会発足
平成5年  1992 油縄子コミユニティセンター竣工
平成7年  1994 鮎川町交番開所
平成10年 1998 老人保健施設しおさい開園

 

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