第六話  助川停車場ができ汽車が通る  常磐線が開通し日立に駅ができたのはお他所百年前です。助川駅といいました。出入り口は一つで、今の海岸口です。
 会瀬小学校から駅までは、けずった土をもって汽車道を作りました。

 汽車道で会瀬は東と西に分けられ洞門(どうもん)で結ばれるようになりました。会瀬の人たちが駅まで行くには海沿いに行ったり、寺の湯の坂上にあった踏み切りを通り、線路の山側にある道路を利用しました。途中には川が二つもあったり、畑や田の間の道でした。なかには、汽車道を道路の代りにした人もいました。工場ができてからは道路も良くなりました。

 上野行きは一日に三往復の汽車が運転され、六時間三十分もかかりました。
 助川駅前(海岸口)には旅館や店ができにぎやかになりました。駅の西側には日立鉱山専用の電車の駅が設けられ、大煙突の下の方の大雄院(だいおういん)と結ばれました。鉱山電車といい、貨物車とともに客車も連結され無料で人を乗せました。

 今の国道二四五号線や相賀町の正門橋はぱ昭和十七年から二十年にかけてつくられました。

 

常磐線が開通したのは明治三十一年二月である。線路地の買収や位置については問題が多く発生した。買収価格が安いので反対が多かった。駅を宮田地区へという運動もあった。会瀬から駅までは汽車道が最短距離であったから利用が多かった。有人踏み切りは二個所、線路横断個所三個所であり正門橋は戦争中につくられた。

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