第二話  相賀のたて(館)

 十五世紀末ごろ(戦国時代)から約百年にわたって相賀町内に武士の館(家)が三つありました。「坊の上」「車城」「新城」という呼び名がありました。城といっても武家づくりの「とりで」のような家でした。
これらの武士は会瀬や助川を守る役目をもっていました。敵から攻められないようにがけの上に屋敷を造り、濠(ほリ)をめぐらし家来といっしよにすんでいました。

「車城」が最初につくられました。海からみてがけの一番南側です。
「坊の上」は青少年の家の西側のがけの上です。
22a.jpg (23257 バイト)規模が大きいのば「新城」です。初崎にある神社の上の森がその場所です。たいへん見はらしが良く、遠く阿字が浦から犬津まで見えます。 新城があったところには今でも盛った土や濠の跡があります。

三つとも太平洋を見おろす、がけの上にあります。まとめて相賀のたて(館)といわれました。

 三つの館をまとめていた人物はこのあたりではもっともカがあったようです。

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