大窪城址・暇修館(大久保)

 

  大窪城跡は、1177年(治承九年}平民大掾宗幹が大久保の愛告山に築いたものである。その後、14世紀ごろ(応永年問)、奥州福島の石川冠者有光の14世詮光3男茂光が佐竹氏に仕えで初代大窪城主となり、以後8代、約200年問続いた。その頃は、愛石山がら天神山へ移され、現在でも二重の掘り跡や屈曲のある土塁跡等にニ連郭の山城に面影を残している。

  大窪城周辺の戦では、南北朝時代に北畠顕家の上洛を佐竹氏が妨害した戦いがあったとの説がある。さらに、戦国時代には相馬氏との間で下孫の合戦があり勝利をおさめた。現存する「相馬の碑」はこの時の戦死者をまつったものである。

 暇修館は、1839年(天保10年)郷医大窪光茂が大窪城跡の自分の土地を提供して建てた水戸藩内15郷校の一つである。
 はしめは、興芸館と言い光茂が館守(館長)となった。この興芸館は医学を中心とした学問研修の場であった。 1844年(天保15年)興芸館を暇修館と名改め郷医の他、神官、郷士、村役人など村の有志を積極的に教育の対象とする郷校に発展した。さらに、1856年(安政3年)暇修館は大窪郷校と村名を付けて呼ぶようになり、同時に、水戸藩の天保改革に基づく「武備の充実」み備えて文武修練の場となった。しかし、幕末以降は衰退の一途をたどり、明治になって暇修館の再興として小学校、村役場、等に使われたが建物の老朽化が激しく、昭和39年土地建物が日立市に移管され、解体された。
 その後、水戸藩に仕えた農政学者永嶋尉信の書き残した「戴水漫筆」の中に1840年(天保11年)頃の興芸館の間取り等詳しく記載されていた。
 これをもとに、日立市は昭和48年、暇修館を復元した。

 現在は、文化財として、わが国の庶民教育史研究上大きな意義を持つものである。また、単に史跡の復元と言うだけでなく、文化関係の行事の会場として市民に広く公開されている。

  近くの大久保幼稚園の片隅に古い「首塚」が有る。幾つかの説があるが、8代目城主「久光」が佐竹藩が関ヶ原の戦で徳川方への参加が遅れたため、秋田に移封に成った際、不服を唱え、徳川に反旗し、処刑された(1602年)。その首を埋めたとの話しもある。大窪城はそこで廃城となった。
(観光協会だより転載し、一部加筆した)

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暇修館正面

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暇修館の庭

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首塚

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