2011年3月11日を振り返る

八巻 秀雄
 午後2時45分、この時間には家内と共に「TOHOシネマ・ひたちなか」で「英国国王のスピーチ 」を見終わり、出口付近まで来た時刻でした。偶々、広いロビーの壁際にいましたので直ちに 近くのものに掴まり、立ったままの状態でいました。長く揺れるので外に出ることを考え、少 しの間、揺れが止まった時の動きだしましたが直ぐに揺れ始め、出口の壁に掴まりました。先 に出た人を見ると立っておれなくなり地面にしゃがみ込んでいました。向かいのユニクロの大きなガラスドア倒れるのが見えました。
 揺れが小さくなり、直ちに車に向かい、余震の中を帰宅にかかりました。当初は道路は空い ておりましたが、原子力開発機構入口の交差点では信号で停車中に大きな揺れがあり、交差点 近くの電柱がひどく揺れ、思わず、倒れた時の場所の関係を見定めました。この辺りうから道 路は混みだし、路面の損傷も大きくなり出しました。

 久慈川の橋が近づいた頃娘から携帯で津波警報が出たからR245は避けた方がいいと連絡があ り、車の列も止まりました。札幌ラーメン屋さんの近くでしたが反転し。R6に向かいました。 この辺りから道路の盛り上がりだけではなく道路わきの人家の塀が倒れているのが見えだしま した。
 榊橋の手前では明るかったのが日立側に入る頃は真っ暗で、その中を国道の歩道を歩いて帰 る通勤・通学の人たちを見かけるようになりました。暗闇の中から日立市の防災放送がただ、「津波警報発令中」と繰り返していました。渋滞止まっている間に カーナビのテレビで大洗港 の渦潮や仙台市の名取川の逆流・堤防破壊の様子を見ることができました。
 渋滞の原因は大和田町から石名坂の間にある二つの橋の袂の段差のようで、そこを過ぎた19 時半頃からは順調に走ることができ、20時頃には自宅の戻ることができました。車のガソリンゲージは赤ランプでした。
 真っ暗な自宅では、トイレが水浸し、断水。しかし、ガスは翌朝まで利用できました。棚、戸棚の中身の落下がひどかったキッチンと私の部屋だけはカメラで記録をとりました。

 翌日からは電気、ガス、水道、暖房、電話のない暮らしが始まりました。
(携帯ラジオは利用できた)それからの10日か ら1ヶ月間ぐらいで

得られた知識
は以下の通り。
  二人暮らしのため当面の食物、飲み物には心配不要であった。
  外部情報は携帯ラジオで茨城放送により多少の日立市の情報が入手できた。
  近所のスーパーの行列は情報源として大変役立った。電気や水道復旧の情報はここで得られた。
  破損したトイレの水配管や便座は何時も利用している電気屋さんに依頼し、手配をしても らい比
  較的短期間で復旧した。これは大型店にない便利な点と思う。

教訓として生活にとりいれたもの
  ペットボトルの水、簡易コンロのガスボンベ、車のガソリン、各サイズの乾電池を常に余 裕を持
  たすこと。
  携帯用の乾電池アダプター、車のアダプターの入手

その他
   築30年以上なのに大和ハウスから2名来てチェック、窓の鍵など調整してくれ、そのままの居
  住に不安がないとの説明があったなった。
   保険会社から係員が来て査定をしてくれた。家具については当夜の写真が役に立った。
   1枚のガラスの破損、庭の土留め壁の亀裂の復旧依頼に手間取った。

 翌日からラジオを通して流れる福島第1発電所の事故状況から何を考えたかはあまり振り返りたくない。

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