私の3.11  使えた携帯メール
 宇梶 秀夫
 
 私は3.11の地震の時、パソコン教室にいた。午後は講師非番だったので、自分のパソコンでいつもの仕事をしていた。大きな揺れにパソコンの蓋を閉め、 教室と階段へのドアの中間で、壁につかまりながら、教室の人たちの避難を手助けしなければと思いながら揺れの治まるのを待った。第一波の地震の揺れの後、 80歳に近いご婦人の携帯が鳴った。地震を心配した息子さんからの電話だった。電話で話をしながら呼吸が荒いのを脇から見てわかった。
 窓を開けてみると、隣の石蔵が潰れており地震被害が大きいことを認識した。事務所で立っているものはすべて横転している。これでは片づけが難しいので既 に停電になっていたが、主電源を切った。帰宅に車を走らせると、少しの距離は信号が働いてなくとも何とか進めた。ところが国道6号に入るとまったく車は進 まない。時々、道路の真ん中を救急車が走る。どの車も道を空けて緊急車両を通している。信号機が蓄電池稼働のものがあったが、十字路でどちらの道路も車で 詰まってしまい車は動かなかった。
 渋滞の車の窓の両側は、南へ水戸方面に帰る人、北へ北茨城方面に帰る人など何人かグループを作って黙々と歩いている。どちら方向に帰る人にも顔見知りが何人もいることに驚く。無事着いても夜半近くになるのではないかと思った。
 国道では前へ進まないので、路地通りに入り車を走らせた。携帯は通じない。すると、メール着信音が鳴った。メールなら使えるのだ。車の廻りは真っ暗。前 を走る車に付いていくので、走りながら見るのがやっと。メールで今どこにいるのかと娘から聞いてきた。そして家族は揃っていると伝えてきた。日頃、携帯で メールをもっと使っていればと思った。家に着くと、玄関に避難所に行っていると孫が書いた張り紙がしてあった。メールがつながったことで、家の近くまで 帰って来ているのがわかり家で全員がいて待っていた。
 余震は続く。結局家に留まることにして、孫たちは靴を履いたまま布団に入り仮眠。余震のたびに目を覚まし身構えた。長い夜だった。停電は3日目に解決、 水道は10日間断水していた。通水になっても、敷地内水道管から漏れのトラブルが発生。それを修理した翌日にもまた修理部から水漏れ。断水の間、風呂に入 れないのが何とも辛かった。
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