囲碁と道教思想
  田中 昭
  囲碁は縦横19路の直線に刻まれた碁盤と、白黒の碁石を使って2人の対局者が交互に1手ずつ石を盤上に置いてそれぞれが囲んだ面積の広狭を競う競技であるが、その起源は古代中国の尭帝まで遡るという。日本に伝来したのは5,6世紀頃で、正倉院には聖武天皇(8世紀)御物の碁盤碁石類が所蔵されている。平安時代になると天皇・貴族だけでなく女官達もこれを楽しんだことが、「源氏物語」(宿木1)や「枕草子」を読むと分るのである。

 尭帝は囲碁を使って占いを行ない天下を治めたと伝えられるが、後漢(1世紀)の文人班固によれば碁盤が正方形であるのは大地の法則性を表しており、道が直線なのは宇宙の徳性を霊妙に表現しているという。また黒白の碁石は陰陽2気であり、布石(石の配置)は天体を模するものである。更に碁盤に刻まれた目の総数361は一年を表し、その外周72路は72候であり、碁盤の4辺はそれぞれ春夏秋冬の4季に対応している。  また中央の天元のまわりに配された星は東西南北乾坤艮巽の8方位を表す。このように碁盤は空間的にも時間的にも宇宙を象徴しているものであって、2人の対局者が盤側に座った瞬間に「道(タオ)」の潜在力が始動し、彼等が碁石を置いていくことは即ち陰陽の2気による天地創造を行なうことに他ならない。

 囲碁はまた「爛柯」(木樵が仙人の対局を見ていて手斧の柄が腐ってしまったという晋代の故事)の別名通り時間を忘れるほど面白く、江戸時代には武士だけでなく一般民衆の間にも普及した。浄瑠璃作家近松門左衛門が書いた「国性爺合戦」(1715初演)には、明の武将呉三桂が韃靼軍との戦いに敗れ幼い皇太子を奉じて流浪の末九仙山に至り、そこで白髪の仙人2人(実は明の太祖とその陪臣)が囲碁に興じているのを見る段がある。その碁盤は天地世界の象徴であり、大明一国の山河草木がそこに織り込まれ折重ねられていた。彼が見ていると日本から国姓爺という勇士が渡来して明に味方して韃靼軍と戦うが、その戦況は盤上の一石毎に変わって行く。彼は義経・楠公もかくやとばかり囲碁の手筋を駆使して敵を打ち破り、遂に皇太子を長楽城に迎え入れるのである。このように碁盤は世界の現状を映す鏡であるばかりでなく、未来を予知するタイムマシンでもあった。呉三桂はこれを見て欣喜雀躍し、皇太子を連れて長楽城に赴き明を再興するのだが、その途上で囲碁観戦中にいつのまにか5年の歳月が流れていたことに気付くのであった。

 このように日常的な空間と時間を超えて、世界に渦動する生命力たる道(タオ)と触発して盤上に晴朗な一区の壷中天を創造する遊び、それが囲碁なのである。囲碁が茶道、華道と並んで「棋道」と称せられ、勝負より前にまず礼儀や石立ての美しさを重んじるのもこうした伝統によっている。            (平成17年1月)  

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