「川尻の散歩」   (日立市)

 

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潮の香りと川尻の歴史をたずね桜を愛でる

・コース(歩行距離約7km)

  (川尻海岸は断崖が続きます。くれぐれも安全にはご注意下さい。)
 ・豊浦公民館・・養高園・・川尻漁港・・黒船見張り御番山(漁港から眺める)・・蚕養神社・・川尻海岸(茨城百景)・・川尻灯台(小休止)・・小貝ケ浜(トイレ有り)・・馬の足跡・・国道6号・・鵜の岬国民宿舎(昼食)12時
予定・・豊良団地・・十王川の桜(昼食と花見)・・かんぶり穴横穴墳墓・・江戸時代の馬力神・・解散 

・交通の便 日立電鉄バス
   朝 日立駅発路線#77 川尻駅行き8時45分 川尻海岸入り口下車
   帰り 川尻海岸入り口路線#76#77予定時刻14:25、15:00、15:22、15:50、16:00 


・川尻の歴史と自然

A 養高園
  政治家・大津惇一郎の貴族院議員勅撰を記念して郷里の人たちが  造った。園内には鈴山記念館を中心に望楼や記念碑などが建てら  れた。丘の上から東京の方角を睨むライオン像がある。今は5基の碑とライオン像だけが残り、園全体は日渡家の所有になっている。

B 川尻漁港 
  川尻の漁業の歴史は古く、鰯や鰹が沢山採れた。 徳川光圀(黄門)も巡村の折、舟に乗って鰹漁をご覧になっている。
  隣接して川尻海水浴場もあり、きれいな海のキャッチフレーズで客足も伸びている。

C  黒船見張り御番山(川尻の海防砲台)
  古くは矢筈山とよばれていた。鎖国政策がとられた江戸時代後半の文化・文成期(1804〜1829)になると、水戸藩領の海上にも異国船がたびたび出現するようになった。藩では領内の海岸の要所に、異国船を見張る遠見番所が置かれた。それから御番  山と呼ばれるようになった。日立には水木と川尻に置かれた。

D 蚕養神社
  祭神は椎産霊命(わくむすびのみこと)他。昔、小貝浜沖の磯に  神が姿を現わしたので、里人は上子山に社殿を造り祭ったと伝え  られています。古くから養蚕の祖神として信仰され、県内外から  数多くの養蚕家が参詣に訪れた。初め於岐都説(おきつせ)明神  と称した。明治時代に改称。通称、津明神。東国三社の一つ息栖  神社の分社である。

E 茨城百景川尻海岸 
  川尻海岸は古来景勝の地として知られ、常陸風土記にも記述があります。明治時代に川尻八景「蚕宮の避暑、水門の帰帆、松崎の仙郷、不動岬の夫婦松、川尻二見、小貝浜の干潮、御番山の秋の月、筈磯の漁火」ができ、大正時代には絵葉書が発行されました。この景観は、昭和25年に茨城百景に選定されています。 

F 小貝ケ浜
  常陸風土記に「藻島駅家の東南の浜には碁石がある。珠玉のような色で、常陸国にある美しい碁石は、ただこの浜からのみ産す。」と記された碁石浜といわれている。古くから、景勝の地として知られている。藻島駅家は十王町伊師本郷周辺とみられている。駅家(うまや)は古代、官道に置かれた駅の施設。30里  (約16キロ、近世の4里)

G 伝説の馬の足跡
  小貝ケ浜の北の松林の中に、経50m、深さ30m程の巨大な海触洞がある。ここが伝説の「八幡太郎義家の馬の足跡」というれる処。今は安全のため、周囲を柵で囲んでいるため、底を見ることは出来ない。潮吹き穴から波が入り込むたびに、波涛の響が地底から聞こえてくる。
注:八幡太郎義家・源義家1039〜1106(長歴3〜嘉承1)平安後期の武将。清和源氏・源頼義の子。幼名不動丸。石清水八幡宮で元服したので、八幡太郎と号す。文武に秀で、騎射を最も良くし天下第一武勇之士と評されるとともに和歌を千載集に残している。

H 海鵜渡来地
  小貝ケ浜一帯は断崖が続き、渡り鳥海鵜の憩の場となっている。海鵜の佇む姿は可憐で趣があります。この地は昭和31年に県の天然記念物に指定され、平成元年には海鵜が市の鳥に選定されました。長良川の鵜飼の鵜はここで捕獲されたものです。

J かんぶり穴横穴墳墓
  日立市文化財に指定されている史跡で十王川東側台地の川に面した斜面に7世紀後半頃に造られた埋葬施設で、現在29基確認されているが、見られるのは1基のみである。

K 十王川
 友部川、梁津川ともいう。竪破山が源。竪破山は里川、花貫川、十王川の水分山。

L 陸前浜街道
 水戸藩では岩城相馬街道と呼んでいた。日立電線・豊浦工場が出来て、道路が分断されてしまった。十王坂として残っている。

M 江戸時代の馬力神
 寛政9年(1797)建立。江戸時代唯一、全国唯一。台石に「右いわき、左たなくら」とある。以前は別の処にあったが日立電線・豊浦工場の建設にともないこの場所に移された。文政10年(1827)水戸藩士小宮山楓軒はここで右折し、奥州鳴子温泉に向かっ た。その時の日記「浴陸奥温泉記」に、「伊師本郷に十王川、土橋あり、十王坂250歩、十王石あり。十王の足跡という所、石くぼめり、この石を踏むもの禍ありという。もしここにて落馬すれば必ず死す、故に相馬の士、下馬して過ぐる者ありとなり。云々」とある。


・川尻の歴史上の人物
  書家 柴田 典常
     1785年(天明5年)〜1859年(安政6年)。折笠の人で「書家として一家を成し、篆書、隷書をよくし、就いて学ぶ人は百数十人に及んだ。」という記録がある。蚕養神社に碑がある。
    
  俳人 日渡 桃洞
     1820年(文政3年)〜1896年(明治26年)。川尻村に生まれ、本名は蔵之介、俳号は桃洞。晩年は東窓と称した。詩歌、俳諧をよくし、短歌にも優れたものを残した。幕末には水戸藩の天狗の乱を奥州白石に避け、9年の間、当地で米穀商を営んだ後、郷里川尻へ戻った。政治家・大津惇一郎の師でもある。地元日渡酒造は桃洞の子孫である。

  政治家 大津 惇一郎
     1856年(安政3年)〜1932年(昭和7年)。折笠村に生まれ、長じて師範学校に学び、やがて川尻小学校の初代校長になった。後に自由民権運動に参加して1880年(明治13年)に国会開設の請願をした。1890年(明治23年)第一回衆議院議員に当選し、以後13回、議員に選出され。1927年には貴族院議員に勅撰されるなど、中央政界で活
躍した。豊浦小学校脇にある銅像は養高園から移したもの。
      

(江田 実 記)

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