「花園神社 歴史散歩」

1.花園神社(本院)のたたずまい

 神橋(コンクリート)、石段(穴太(あのう)積)、石鳥居(1675, 寛永寺の末寺の刻み)、楼門(1792)、 仁王(石像1673, 木像1762)、勅額(1330)、天井龍図、拝殿(1851 再建)、龍額(1674)、俳句額(1774, 1777)、 高野槙(600年)、三本杉(500年)、本殿(1832 補修)、三猿、二神使猿(1869)、狛犬(木彫1665)、狛犬(石造り)、 碇(1886)、境内社 (厳島, 東照宮, 琴比羅, 千勝, 鷺森, 月読, 淡島, 稲荷, 王子, 大国主, 浅間, 湯殿, 愛宕, 熊野, 天照大神, 伊邪那冊伊邪那美大皇)。

( 写真 左上は拝殿 左下は楼門の仁王石像 右上は本殿の三猿彫刻 右下は石の狛犬 )

拝殿.JPG

本殿三猿.JPG

楼門仁王.JPG

本殿狛犬.JPG

2.花園大権現の歴史

 ( 神霊 磐座→花園山金剛王院満願寺、花園権現→花園日吉神社→花園神社 )

BC50? 蝦夷対応のため崇神天皇の命で鴨氏を常陸に派遣。
668  天智天皇の命で琴御館宇志麻呂が花園の砦の守りにつくが敗れて逃げ帰る。
795  垣武天皇の命で坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝祈願。
807  田村麻呂が勧請により大物主命、大山咋命、大山祗命を祀る。
   平城天皇の勅許により花園山の山号。

861  清和天皇の命により慈覚大師円仁が花園山金剛王院満願寺を創立(天台宗)。
1560 醍醐寺三宝院尭雅3回下向(真言宗)。[3_仁長]
1581 円蔵坊から出火、三重塔を含む全山焼滅。
1585 東北真言宗本山寿山薬王寺の末寺となる。[10_堅弘]
1602 徳川家康より朱印地50石、山林5000町歩。
1609 客殿建築。

1643 東叡山寛永寺天海(慈眼大師)により天台宗復帰。[13_天翁]
1652 拝殿再建。棚倉城主内藤摂津守の依頼で山王権現を勧請。[15_堅翁]
1658 石鳥居、楼門の仁王、神宮寺の薬師如来献上。[16_辧高]
1674 満願寺代々雑記。[22_饒雄]
1690 客殿から出火 本尊、客殿、庫裏、護摩堂大廈焼失。
1832 本殿修理。[38_義堂]
1856 飛騨高山の大工大平棟梁による再建。[39_最綱]

1867 満願寺領 若森県に接収(版籍奉還)。[41_教潤(改名 教種)]
1868 神仏分離令(廃佛毀釈)による仏教品散逸。[42_幸潤(改名 束)]
   官軍侵攻による破壊炎上。
1875 盗難放火により古記録消滅。宝蔵崩壊。
1911 満願寺本坊解体。[44_教之]

3.山岳信仰と常陸五山

 山岳信仰の常陸五山とは、常陸の国の北部にある 花園山(北茨城市)・堅破山(十王町)・ 東金砂山(水府村)・西金砂山(金砂郷町)・真弓山(太田市)を指す。これらの山岳寺院は、いずれも慈覚大師 円仁による開山または再興の縁起があり相互に密接に結びついていた。

 日光の山を観音の浄土である補陀洛の地とし二荒の神と称する霊山の信仰が生まれた。807年(大同2) 大旱魃 のとき勝道上人が補陀洛山に登り祈祷すると雨が降り百穀豊かなりとある。農業に豊穣をもたらす日光連山へ の信仰が常陸の国への天台宗の伝来の背景の一つと考えられている。

 天台宗の守護国界の思想は、陸奥(東北地方)と国境を接する常陸の国としては現実の問題であり、奈良時代 から平安時代にかけての蝦夷征伐に結びつくことになった。征夷大将軍 坂上田村麻呂による蝦夷征伐の成功に より常陸、陸奥の天台宗 寺院や神社の創立を田村麻呂に結びつけ、神仏の霊験を宣伝するようになった。 五山の創立も 806〜807(大同元〜2)とするものが多いのは蝦夷征伐の時期に合わせている。
 前九年、後三年の役には源頼義、義家の奥州下向のときの戦勝祈念も各山にしたことになっている。

 祭神は堅破山の黒前神社を除き、主神は大物主命(大己貴命・大国主命)で、慈覚大師円仁が近江国比叡山 東山麓の山王権現日吉大社の分霊を勧請した。現在は五山の名称は神社になっているが明治維新前は山王権現 または山王大権現を名乗った神仏習合、本地垂跡の社であった。
 山王権現はサルを使者とするところから五山もサルが関係している。十二支の申から庚申信仰となり「見ざる 聞かざる言わざる」の三猿を像に刻んで祀ってあるのが多い。

 祭りは4月8日に行われ、7年毎に磯出祭を行う。花園山も7年毎に花園川の下流の磯原の亀升磯に磯出をする。 花園山はあわびを御神体としている。東金砂山、西金砂山、真弓山3社は一緒に大みか水木浜に浜下りし、 大田楽祭は73年毎(次回 2003年)に行われる予定である。このとき御神体のあわびを奉ずるという。
 堅破山は高萩市の石瀧稲村浜に下られた。磯に出現した神を再現する神事だそうである。

( 上記は「花園神社(歴史散歩)」(45代 花園文熙氏 1999.9.10)から引用/文責は 吉田 稔 )

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