地殻、河口周辺の話題

 

 新修 日立市史 平成6年  日立市史編纂委員会より  
 日立地方を含めた阿武隈山地一帯は日立古生層が分布している。  3億6千万年ないし2億5千万年前には海底であり、その後の造山活動で阿武隈山地が出現した。その後、侵食による準平原化が進み、花崗岩類や変成岩類が地表に現れた。  石灰岩は西部山地に存在し、明治40年よりセメントの原料として利用されだした。石灰岩は水に溶けやすく鍾乳洞ができる。諏訪の水穴、大久保の風穴が出来た。変成作用で結晶質になったものが常陸太田、真弓で産出する大理石である。

 多賀山地の周縁部は断層崖と思われるような急斜面で起伏量にして150〜200mあり、ここでは各河川も峡谷状のV字を形成している。多賀山地が隆起により若返ったためで隆起準平原であることのしょうこをしめすものである。
 河口で露出している岩は主に「凝灰岩質泥岩」で砂岩、凝灰岩、礫岩などを挟んでいる。
 海岸の浸食を防止するため昭和31年に海岸法が制定され、日立市域で12箇所が指定され、波消しブロック、護岸堤、突堤などの設置工事が進んでいる。
 


河口の峡谷

河口海岸ある一つ島

桜川に関する話題

 八反原の伝説  旧日立電鉄の鮎川−桜川駅間は古くから追剥が出るところとして知られていた。昭和10年頃まで昼なお暗き密林であった。  伝説に「多珂の五郎丸」という山賊が居て手下300人を擁したとある。

 相馬碑と孫沢原の戦い  1506年に相馬盛胤が佐竹領に侵入し、多珂の諸館を攻略をした。当時、宇都宮方面に出陣していた佐竹義昭が戻り、孫沢で相馬勢を撃退した。多くの相馬将士が戦死をし、その供養のため地元の人が碑を建てた。  後に、相馬藩主がここを通過する際に詣でていたとあるが、裏話として相馬家側にはこの戦いの記録はなく、この戦いで活躍した地元の郷士たちをたたえるために建てたのではないかとの説もある。


相馬碑 多賀町5丁目旧国道6号沿い
念仏橋顕彰碑 多賀町5丁目6号国道脇
 日立電鉄線  
 常陸太田から大甕までの路線を日立製作所が工員の通勤の足として延伸を図り、戦時中に高萩までの免許を得たが、昭和22年にようやく鮎川まで完成した。平成17年3月末で廃線となった。

 右の写真は2005年4月、路線廃止直後の桜川駅周辺

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