日鉱記念館 (日立市) 銅山の歴史 明治33年(1900)、ドイツ人貿易商(ボイエス商会)が赤沢鉱業合資会社を設立、ノルウエー人、シー・オールセンが采配をとって再開した。後に、社員の大橋真六の単独経営となった。 明治38年(1924)、久原房之助が30万円で買い取った。当時、この場所が日立村であったことから「日立鉱山」と命名した。明治45年には全国第3位の銅の生産をするまで急速に成長した。これは、久原氏が秋田県の小坂銅山での経験を生かし、また、其処の人材を利用し、さらに、従来の人力を主体とした採鉱を大掛かりに機械化した成果である。 大正6年には従業員数が最大を記録し、鉱山と製錬をあわせ8,200人であった。 この頃、ここの鉱石に硫黄分が多かったことから亜硫酸ガスに公害が大きくなり、周囲の山の植物は全滅状態となった。対策として、気象観測所をつくり、風の状況による生産調整を行ない、更に、大煙突を大正3年に完成させた。この煙突の高さは157.7メートルで、当時として世界最高記録であった。この煙突は平成5年(1993)に突然折損し、54メートルとして修復され、現在に至っている。更に、日立鉱山は鉱毒による禿山を生きかえらすため、東海村に石神試験場をつくり、公害に強い植木を育て、植林に努めた。公害と付近住民との関係は新田次郎氏の小説「ある町の高い煙突」に詳しく紹介されている。 (次頁「大煙突」を参照) 日立鉱山では製品や諸物資の流通のため電気鉄道を当時の国有鉄道日立駅と鉱山との間に設けた。現在の駅前のシビックセンター周辺の土地は操車場と資材置き場を再開発したものである。この電車は町の中心から市役所の横を通り、精練所まで走り、1960年に廃止になるまで、市民の無料の足としても利用されていた。 坑道の中心は第1および 11竪坑で、地下600メートル、海面下250メートルあり、76年間活動した。日立鉱山は1973年に日本鉱業から独立経営となったが、資源枯渇のため1981年9月に閉山した。現在は日鉱金属 日立工場がこの地で操業を続けている。日立製作所は明治 41年に鉱山の電気機械修理工場として5名により作業を開始し、大正9年に久原鉱業(日本鉱業)から独立した。
日鉱記念館 日立鉱山の跡地に昭和61年に開設したもので、本館、鉱山資料館のほか屋外施設がある。 本館には創業以来の企業の歴史や当時の鉱山の生活習慣に関する資料及び模擬坑では実物大の人形、機械による作業状況を見ることが出来る。その他、企業の関連情報を知ることが出来る。 鉱山資料館は昭和 19年の資材不足時代の建物で、クレーンの走行枠も木製の珍しい構造である。採掘の動力源であった大正7年に購入された450馬力の空気圧縮機は本体が米国製、電動機は日立製作所より\12,162で購入されたと記録されている。また、ここでは各種の削岩機、世界の鉱石の標本等が見られる。平成17年、日立鉱山創業100周年を向かえ、展示物のリニューアルを行った。 所在地:日立市宮田町 3565 日鉱記念館 電話:0294-21-8411交通:常磐高速道日立中央 ICから約7km、10分。日立電鉄バス日立駅から東河内行、日鉱記念館前で下車、約25分開館:午前9時から午後4時まで 月曜および第2、4、5日曜、祝祭日は休館入場料は無料 |