会瀬の出来事(年表)


 726年 (平安) 「常陸風土記」が編集された。助川を昔,遇鹿といった。
 799年 (平安)  津渡が会瀬を襲う。
1083年  (鎌倉) 源義家が兵を率い日立を通り八幡清水(旭町)伝説が生まれる
            一清水,遇鹿村雨降jに落ちるとある
            佐竹氏の家臣小野崎氏一族が会瀬を支配した。
13世紀 (鎌倉)  相賀村に車館・坊の上館・新城館という武士の館があり総称して相
            賀館といった。
14世紀 (室町)   真言宗福聚寺が相賀につくられた。(日立工場内)
16世紀   (室町)   相賀村に修住院・福性院・成就院・鏡存院等の寺があった。
1609年 (江戸)   日立地方は水戸藩の領地となる。
1695年 (江戸)    徳川光圀が神峰神社を宮田・助川・相賀三か村の鎮守の神社とした。
1698年 (江戸)   相賀村から会瀬村となる。
1783年 (江戸)  天明の飢饉により日立地方も大変な食料不足で餓死者がでた。
1805年 (江戸)  このころの会瀬村の戸数は264戸だった。
1816年 (江戸)  このころ会瀬沖合に異国船が現われる。
1817年 (江戸)  和算家(算数研究者)山口和が会瀬村を訪問する。(門人が6人いた)
1841年 (江戸)  会瀬村で検地(上地面積調査)が行われる。
1841年 (江戸)  助川付に助川の館(助川海防館)が完成。
1847年 (江戸)  会瀬・河原子・川尻のかつお船が道難し200人の死者がでた。
1853年 (江戸)  異国船攻撃のため初崎に砲台がつくられる。
1856年 (江戸)  会瀬村出身の蘭医(種痘で知られる)柴田放庵長崎で死去。
1871年(明治4) 日立地方は茨城県の管轄下になる。
1889年(明治22)会瀬村と助川村が合併し高鈴村となる。
1897年(明治33)常磐線が開通し助川停車場(駅)営業を始める。
1908年(明治41)会瀬郵使局が開局した。兎平は昭和18年に開局。
1909年(明治42)会瀬青年会がつくられた。
1910年(明治43)舟入り海岸で銅鉱石運搬船から鉱石を陸揚げした。
            3月暴風雪で会瀬漁民が遭難し17名行方不明となった。
1913年(大正2)   会瀬村の漁民がメキシコヘ漁業出稼ぎにいった。昭和7年まで続く。
1914年(大正3)  会瀬村に電灯ともる。
1925年(大正14)高鈴村が助川町になる(助川町字会瀬)
1930年(昭和5)   会瀬地区に日立製作所海岸工場ができる。
1936年(昭和11)定置網漁業(大謀網漁)が始まる。
1939年(昭和14)日立町と助川町が合併し日立市が誕生した。
1945年(昭和20)学区内が爆弾、焼夷弾攻撃を受ける。
            海岸工場・相賀町被弾会瀬一丁目焼失。
1947年(昭和22)キャスリン台風の高潮で防波提,護岸が決壊した。
1948年(昭和23)このころ国道245線開通した。会瀬鹿島神社稲荷山に移る。
1948年(昭和23)水道が地域に普及。(市営水道となる)井戸から水道へ
1953年(昭和28)旭町の常警線立体交差道路が完戊。(踏切がなくなる)
1960年(昭和35)チリ地震津波により漁船流出被害。
1969年(昭和44)池の川地区に市民運動公園をつくり始める。
1973年(昭和48)池の川下水処理場使用開始。
1975年(昭和50)会瀬学区市民運動推進会発足した。
1977年(昭和52)会瀬スポーツ少年団(水泳・サッカー・野球)結成。
1985年(昭和60)会瀬青少年の家できる。

(会瀬学区市民運動推進会 作成)

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