塙山学区の寺社と史跡


長福寺境内の「照山修理」の墓と日立市保存樹のスダジイの樹

  「長福寺」  曹洞宗 本尊:釈迦牟尼仏
 

 昔は長清寺と称し、寺伝によれば創立は室町時代後期と推定されています。幕末兵火にかかり焼失廃寺となり、昭和9年12月神奈川県愛甲郡愛川村長福寺の寺号を移して再建されました。(『日立市史』昭和34年2月20日発行より)

「照山修理」

 「昔から金沢村は、水田が少なく米の産出の少ない村だった。この金沢村に、寛永18年(1641年)に水戸藩最初の検地があった。極めて厳重な検地で、農民は少しの余裕も与えられずに苦しむものであったが、これに対し積極的な反対するのは誰もいなかった。
 照山修理は56歳になる金沢村の庄屋であった。修理の先祖は、佐竹氏に仕え、久慈郡照山村(現在の大子町山方宿)に住み照山を氏としたが、照山昭広の代になって金沢村に移り住み、土着して農となった。修理は村の責任者である立場にあって、これを黙って見ているわけにはいかず、一家をあげてこれに反対したため、藩の手によって捕らえられ、弟と修理の次男と共に寛永18年7月26日、金沢村塙山において処刑された。
 その後、水戸藩二代藩主徳川光圀の代になって、藩主自らその家に寄って四脚門を建てることを許し、武士の待遇を与えたといわれ、公に許された。その照山一族の墓が長福寺にある。」(柴田勇一郎著『ひたち地方の伝説』 1977年10月31日 第二刷発行より)

「塙山学区の史跡等」

 塙山学区の地内には、「寺前遺跡」・「天王遺跡」・「北向後塚群」・「金沢館跡」などが記録されています。

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